雨 夜

 大雨に月の霞む闇深い夜がつづいていた。
 長雨続きで客足が遠のき、夜が更けても提灯の明かりが消えたままの飲食街は、底冷えするような静けさに包まれている。
 八百万の神々を迎える湯屋「油屋」にも、数日ほど前から閑古鳥が居座っていた。早い時間に照明の落とされた湯殿や客間は、日ごろの賑わいが恋しく思われるほど閑散としている。
 それに反して、建物の奥まったところに位置する従業員の居住区画は、雑然とした活気に満ちあふれていた。
 暇をもてあました蛙男やナメクジ女たちは、思い思いに時間をつぶしている。
 窓辺で煙草をふかす者。
 配膳所からくすねてきた余り物をつまむ者。
 畳に寝そべりカルタ遊びに興じる者。
 吹き抜けの回廊にたむろして、噂話に花咲かせる者など。
 そうした集団の中に、千尋の姿はない。頃合いを見計らって、下働き仲間のおしゃべりの輪から抜け出した彼女は、ひとりで上階のある一室をたずねていた。
「なかなか、降りやまないね」
 槍のような雨がガラス窓をたたきつけている。この土砂降りの中、出先から戻ったばかりのハクは、全身から雨水をぽたぽたとしたたらせていた。
 千尋は洗濯所からもってきたタオルを差し出す。ありがとうと微笑む白い頬に、濡れた髪の毛がしっとりと張りついている。いくら龍が頑丈といっても、雨の中を夜な夜な飛び回っていては体を壊してしまうのではないかと、千尋は気が気ではない。
「ハク、寒くない?」
「大丈夫だよ。ちゃんと着替えるから」
 頭の上にぽんと手をのせられて、千尋の頬が紅潮する。
「……後ろ、向いてるね」
 雨だれにまじって衣擦れの音が聞こえてくる。逸る心をおさえきれずに千尋がそっと振り返ると、薄闇の中にほの白い背が浮かび上がって見えた。傷ひとつないすべらかな肌から、目が離せない。
 ハクは濡れた髪を、手際よく頭の高い位置でひとつに束ねる。乾いた衣を身に着け、腰の帯を締めて、振り向いた時には彼女はすでに背を向けていた。
 千尋──と呼びかけて、口をつぐむ。
 勘違いをしてはならないと何度言い聞かせても、淡い期待を抱いてしまう自分がいる。千尋の親切が、特別な好意の表れであったならいいのに──と。
「……着替え終わった?」
 一拍子置いて、うん、と返事をすれば、振り返った千尋が安堵の笑みをこぼす。思わず抱き締めたくなるようなその表情。湧き上がる衝動をこらえながら、ハクは穏やかに微笑み返す。
「そろそろ部屋にお帰り。皆が心配するから」
 近頃は本心を隠し通すことが、段々と難しくなってきている。
 千尋に近寄られると、つい触れたくなる。
 心を抑えつけても、手が自然と伸びてしまう。
 千尋を戸惑わせたくはない。無理やり気持ちを押し付けることもしたくない。
 それでも──堰をきって流れ出した水のように、彼女への想いを止めることはできなかった。
 だからいつもぎりぎりのところで、彼は踏みとどまるのだ。
 千尋にとって、気の置けない仲であり続けるために。
「わかった。じゃあ……もう戻るね」
 一瞬、躊躇うそぶりを見せながらも、千尋はハクの顔に手を伸ばした。頬に張りついた髪のひとすじを、彼の耳にかける。
 視線が近いところでまじわり、窓に打ち付ける雨の音が遠のいていく。
「──また、明日」
 二つの声が重なった。どちらとも、相手の声がかすかに震えていたことには気がつかなかった。





リクエスト:油屋数年後、両片想いハク千

2017.04.28



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