※R15
「だまって雨宿りしたりして、怒られないかな」
濡れた前髪を掻き上げながらかごめがぼやいた。
あらわになった額は、庭先の木に咲く木蓮の花びらのように白く透き通っていた。雨露のしたたる首筋も、しっとりと水気を含んだ白衣の胸元も、舐めるように見つめてしまう。ゆくりなく降り出した雨を避けるため、かごめの手を引いてこの寂れた古寺に駆け込んだことが、犬夜叉は今更ながら悔やまれた。
「犬夜叉?……寒いの?」
背後から抱き着く彼に、かごめが子どもをあやすように優しい声でたずねてくる。その向こうに湿り気をおびた雨だれの調べを聞きながら、犬夜叉はそっと目を閉じる。かごめの甘い匂いが降りはじめの雨の湿った匂いと混ざり合い、鼻先から吸い込むたびに胸がつまるような恍惚を覚えていた。
昨夜も一晩じゅう腕の中に閉じ込めて離さなかったというのに、まだ、途方もなくかごめが足りなかった。
「ねえ、犬夜叉……どこ、さわってるの」
かごめの肩が小さく跳ね上がる。制止も聞かずに、彼は衣の中に滑り込ませた手を動かし続ける。彼女から香る甘い匂いは、咲き初めの花が放つ芳香のように、息をするごとに強まっていく。
守りたいはずなのに、苛めたくてたまらない。
はじけるような笑顔が好きなのに、彼にだけ見せる切なげな表情にどうしようもなく心を揺さぶられる──。
倒錯的な思いに駆られながら、桃色に染まる耳元に犬夜叉はかすれた声で囁きかけた。
「──おすわりって、言えよ」
かごめの濡れそぼった瞳がじっと見上げてくる。
何も知らない赤子のようでも、すべてを見透かした賢人のようでもある奥ゆかしいその眼差し。
彼女が言霊を口にすることはないだろう。
清らかな花を手折る後ろめたさに、犬夜叉の背中がぞくぞくと震える。──彼女に対する欲望をおさえるすべを、彼はもたない。
まだ思いを遂げないうちはよかった。かごめの白い肌のすべらかさも、豊かにふくらんだ胸の柔らかさも、奥深いところのとろけるような熱さも知らなかった。知らなかったから執着することもなかった。手を取り合い、心を通わせるだけで満足できたあの頃のように、できることなら慎ましくありたかった。
熱い吐息のおさまらぬうちに雨があがり、かごめはほんのりと上気したままの素肌を白衣の中に押し隠す。緋袴の腰紐をほどいたのは犬夜叉だが、それを元通りに結びなおしてやるのも彼の特権だった。
「かごめ。──立てるか?」
おぶってやろうか、と手を差し伸べれば相手はおずおずとその手を取る。
戸外に出ると、雨あがりの大地の匂いがあたりに満ちていた。空に向かって咲き乱れる木蓮が、無数の白い花びらを水たまりの上に散らしていた。風に揺れる枝の先からは、通り雨のなごりがこぼれ落ちている。
「いい匂い」
背中でかごめがうっとりと目を閉じているのがわかった。犬夜叉はふと名残惜しさを覚えて古寺の戸口を振り返った。濃密なひとときを過ごしたことが嘘のように、木蓮の香りがただようその寺はひっそりと静まり返っている。
あの中にかごめと二人で籠もっていられるならどんなにいいだろう。
確かに満たされたはずなのに、もう彼女のすべてが恋しかった。
2017.04.09