─ 三碗不過岡 ─



 西のある山麓には、常人を決して寄せ付けない仙域がひろがっている。
 旅の途中、従者たちとともにこの領域に行き着いた殺生丸だったが、強力な結界に阻まれて峠に至ることができない。
「あっ、あそこにお店があるよ!」
 阿吽からおりて駆け出すりん。邪見が人頭杖を抱えながら、あわててその後を追いかけていく。
 薄暗く霧深い霊山の麓に突如として現れたのは、小ぢんまりとした酒店のようだった。門灯がぼんやりとともっており、柱に貼られた紙には、
「三碗不過岡」
 の五文字が掲げられている。
「邪見さま、これなんて書いてあるの?」
 首を傾げる子どものかたわらで小妖怪が巨眼をすがめる。
「三杯飲めば、峠は越えられない?」
「……何を飲むの?」
「たわけ、わしが知るかっ」
 殺生丸はしばらく酒店を見ていたが、興味を失ったように踵を返した。
 目の前に強い酒の匂いが立ち込めたのはその瞬間である。
「ようこそいらっしゃいました、犬妖怪の若君」
 彼の毒爪は声の主を仕留めそこねた。酒瓶を手にした若い男は、傷ひとつ負っておらず、何食わぬ顔で邪見とりんの後ろに立っている。
 人の姿をしているが、人ではない。
「峠を越えたければ、我らの酒をお召し上がりください」
 邪見の悪態を意に介さず、若者は白い碗になみなみと酒をつぎ、腰をかがめてりんにそれを取らせた。
「渡しておいで」
 りんは謎めいた微笑みをたたえる見ず知らずの相手に警戒しながら、後退した。振り返り、碗の中身をこぼさないように、殺生丸のもとへ運んでいく。
「殺生丸さま……」
 不安げに見上げてくるりんの手から碗を受け取り、彼はその中身を黙って飲み干した。
「さすがですね。人が飲めばひとたまりもありませんよ」
 殺生丸の表情に変化はない。
 若者は手招きでりんを呼び寄せ、空になった碗にふたたび酒をそそいだ。
「三杯飲んでもまともに立っていられるなら、この先へ通して差し上げましょう」
 二杯目を運ぶりんは、ますます心もとない面持ちになる。
「殺生丸さま、大丈夫?」
 殺生丸にこれといって変わった様子は見られない。だが、碗を口元に運んでいくまでに、一杯目よりもやや時間をかけたようだった。
「──犬の子はやはり犬。辛抱強いところもよく似ている」
 若者のぼやきに、彼の眉尻がぴくりと動く。
「どういう意味だ」
 相手は肩をすぼめ、三杯目を少女に託した。受け取ろうとする手に、すかさずりんが触れてくる。いつもは冷たいその手がじわりと熱を帯びていることに気づくと、少女ははっと顔を上げた。
「……熱いの?殺生丸さま」
 内緒話のように声をひそめて囁きかけてくる。殺生丸の視線が彼女の小さな手に、それから気遣わしげな瞳に落とされた。
「殺生丸さま?」
 りんの顔にうっすらと影がおちた。殺生丸がゆっくりと、上体をかがめて金の双眸を近づけてくる。
「……案ずるな、りん」
 耳元に低いささやきを残して、彼は離れていった。触れそうに掠めた頬にかすかに感じた熱に、りんがとまどっているうちに、三杯目の碗が空になる。
 殺生丸は若者を見据えた。頬が上気することも、脚がふらつくこともない。くやしそうに、若者が地面を踏み鳴らす。
「あなたの勝ちだ。ああ、犬妖怪はほんとうに強い」
 邪見がすっかり勝ち誇った様子で何事かいおうとしたが、若者の姿はすでにそこにはなかった。深い霧が晴れ、あの酒店もあたりにめぐらされていた結界も、いつのまにか忽然と消失している。
「あれは勧酒仙人かもしれませんなあ。仙域に現れて通りかかる者に酒を勧めてくるとか。しかし殺生丸さまを試そうとは、なんたる不届き者……」
 ぶつぶつと文句を垂れながら山道をすすんでいく邪見。りんもそれに続こうとするが、ふと背後の彼が動かないことに気づく。
「行かないの?殺生丸さま」
 殺生丸は無言でりんを見つめ返した。彼の表情こそ変わらないが、やはりどこかいつもと違うことを察したりんは、つま先立ちになってじっとその顔を見上げる。
 ──あれ、今、笑った?
 りんが小首を傾げた時にはすでに、その顔はいつもの無表情を取り戻しており、見間違えただけかもしれないと少女は思い直す。
「山道は疲れちゃうから、ゆっくり歩こうね。殺生丸さま」
 前に向き直り、阿吽の手綱をひいて歩き出す。
 その後ろでほんの一瞬、妖怪の足元がふらついたことを、少女は知らない。





17.03.11


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