人々で賑わうダイアゴン横丁に隣接する、かつては闇の住処とされたノクターン横丁に、以前のような纏わりつくような闇の気配はそれほどには感じられなかった。
狭く人のいない通路に寒々と吹く隙間風が、どこか頽廃的な空気を醸している。くしゃくしゃになったいつかの日刊預言者新聞の一頁が、その風にかさかさと飛ばされた。
皺だらけの新聞の一面には大きなモノクロ写真があり、その中でかつては闇の崇拝者と謳われた魔法使いたちが、監獄の鎖に手首を繋がれ深く頭を垂れている。
皆一様に、自分たちに断りもなしにピントを合わせるカメラマンを呪う気概すらも尽きてしまったようだった。頬がこそげ落ち身形すらも整えられずに、ただ主の敗北と滅亡とに打ちひしがれる彼等のその姿こそが、長らく続いた暗黒の時代の終幕を物語っていた。
乾いた音を立てて自分の踝に当たったその頁を、屈んで拾い上げる魔女がいた。
栗毛色のウェーブがかった豊かな髪を肩口からこぼして、ハーマイオニー・グレンジャーはその皺をのばすようにして横に広げる。
──死喰い人達の弾劾、着々と進む。
古めかしく畏まった字体で大きく書かれた見出しの下に、蠢くモノクロ写真が収まっている。ハーマイオニーはそれの映し出す人々の頽廃的な有様に居た堪れなくなったかのように、すぐに写真から視線を逸らした。
彼女はあの後、最終学年の履修のためにホグワーツへ戻り、無事成すべき試験の全てを修め、晴れてホグワーツを卒業した。
最も仲のよかったハリーとロンが戻らなかったのにも関わらず、ホグワーツでもう一年を過ごすべく彼女が再び単身ホグワーツ特急に乗ったのには、大きく二つの理由があった。
ひとつの理由は、NEWT試験を受験するため。入学以来勉学に勤しみ、膨大な量の知識を積み重ねてきた彼女にとって、それは自分の能力を推し量るための、最後にして最大の関門であったのだった。
それを見す見す逃してしまえば、今までの努力が無駄になってしまうような気さえした。だからハリーたちと揃って一年早く魔法社会に出ることは、まだはばかられたのだった。
──そして、ふたつめの理由は。
ハーマイオニーは草臥れたパブの扉に背を付き、そっと睫毛を伏せた。杖を持つ手が微かに震え、もう片方の手で押え付けるようにする。
ふたつめの理由は、そう──待っていたかったからだった。「彼」がまた、彼女のもとへ戻ってきてくれるのを。
彼は在学中に死喰い人の一団に加わってしまったのだから、もう学び舎に戻ってくるはずがない。そんなことは当然頭では理解していた。
死喰い人達はみな、魔法省からの追及に追われている。この数年間の間で、殆どの死喰い人達は監獄へ繋がれ、ウィゼンガモット法廷にて然るべき刑を宣告されたはずだった。
……彼の一家が弾劾を免れたのは、彼の母があの日、ハリー・ポッターの命を意図的にではないにしろ救った形になったことがきっかけだった。
以来彼ら一家はひっそりと、魔法界の表舞台と社交舞台から消え失せ、どこかの古城で身を寄せ合い生き延びているらしかった。
──しかし彼女は風の噂で耳にしたのだ。あの日から日を置かず、彼が突然何の前触れもなしに両親のもとを去り、杖だけを手にひとりどこかへ旅立ってしまったらしい、ということを。
それを聞いて、既にロン・ウィーズリーの方へと傾いていたハーマイオニーの心が大きく揺れた。
生き方を違えてもまた何処か出会えると思っていた。また何処かで逢うことさえできれば、それでいいと思っていた。──それなのに。
消息すら定かでなくなってしまった。危ない目にあっているかもしれない。もしかしたらこのまま一生会えないのかもしれない。不安ばかりが彼女の内で募っていった。
胸が押しつぶされそうになり、彼女は数日間部屋に篭ってひとり懊悩した。悩んで悩んで、悩み抜いた果てに、やはり自分はまだ彼を曲がりなりにも愛していたのだという結論に至った。
そう結論づけてしまえば、あとの行動は決まっていた。
彼が戻ってきてくれるかもしれない場所で、共に過ごした想い出の詰まった学び舎で、彼を待つ。
一年だけ、とハーマイオニーは自らにタイムリミットを課した。もう一年だけ彼を愛し、待っていてみよう、と。そして再会することが叶わなかったなら、その時には諦めて反対側の手を取るんだ、と。
勉学により一層励みながら、彼女は彼を待ち続けた。誰もいない地下教室に視線をさ迷わせ、クィディッチ競技場の空を見上げ、長い渡り廊下の果てに目を凝らし──想い出を探しながら、面影を求めながら。
結局、彼は戻っては来なかった。卒業の日まで根気強く待ってみたが、駄目だった。プラチナブロンドの髪も、アッシュブルーの瞳も、やはりもう戻ってはこないのだと思い知らされた。
卒業後、ハーマイオニーは魔法生物管理部に就職した。不当な扱いを受ける屋敷しもべ妖精達の権利向上に邁進し、その手腕を買われて、魔法法執行部という上位機関へ招かれた。
不当な純血優先法の廃止に向けて、彼女は日々奔走していたところだった。学生時代、奇しくも彼女が彼から受けた言葉の非難が、ここでの彼女に活力を与えていた。
離れていてもやはり彼は自分の心を縛り付ける。ハーマイオニーはローブを目深にかぶりながら、そっと息をついた。
きっと彼から学生時代に「穢れた血」と罵られ続けていなければ、これ程までに今の任務にのめり込むこともなかっただろう。演技上での嘘だと知りながらも、彼女はその言葉に確かに傷を受けていた。
ギイ、とパブの古びた木製の扉を開けると、中からむっとアルコールの香りが漂ってきた。酒はあまり得意な方ではない。ハーマイオニーは僅かに眉を顰めた。
適当なカウンター席に座り、適当にオーダーをとって、フードの奥で視線を光らせる。
今日の彼女はある純血主義の魔法使いを諜報する任務を担っていた。
標的は彼女の後方に居る髭面の痩せた魔法使いで、全身を黒に包み、ほの暗い雰囲気を纏った男だった。幾人かの魔法使いたちに囲まれて笑いながら、グラスを傾けている。
ハーマイオニーは小さく呪文を唱え、杖をローブの中で振った。会話をもっとよく聴かなければならないが、これ以上近づくと怪しまれる。密かに盗聴呪文を掛けたのだった。
耳元でくっきりと聞こえるようになった会話に、彼女はじっと聞き入る。彼はやはり、仲間たちと純血優先法廃止を破綻させる目論見を話し合っているところだった。
反対勢力の動向を知っておくことは重要だ。ハーマイオニーは集中して会話の盗聴に耳を傾けながら、オーダーしながらも口を付けることのないグラスをじっと見詰める。
混血や非魔法族に対する聞くに耐えない悪口雑言が流れてくる。彼女は怒りを抑えながら、堪え忍んだ。学生時代の屈辱がよみがえったが、その記憶は「彼」の思い出と表裏一体なのだ。怒りとは違った思いに心が揺さぶられる。
不意に彼女の隣に誰かが座って、またいなくなったが、背後の会話に集中しながら心の葛藤を抱える彼女は気付かない。
暫く経つと、パブのマスターが唐突に彼女に語り掛けたため、ハーマイオニーは思わず肩をすくませた。
「お客さん。飲まないんですか?」
「え?あ……そうね、ちょっと考え事をしていて…」
ハーマイオニーは冷や汗をかきながら、ローブの奥からマスターを見上げた。マスターの細い瞳が怪しいものを見るように、訝しげに細められていた。
「……お客さん、おひとりで?」
「え、ええ…まあ……。時間つぶしにね。お腹がすいてきたから、せっかくだからスープでもくださらない?」
気を逸らせるためにハーマイオニーが注文をつけると、マスターは今だ小首を傾げながらも頷いて、厨房へと消えていった。
ハーマイオニーは浮かんだ冷や汗を手の甲で拭って、ほっとひと息をつく。諜報活動はまだ経験が浅いため、彼女にとっては危険な綱渡りとも言えた。
取り敢えず周囲から怪しまれないためにも、客になりきらなければならない。ハーマイオニーは、オーダーを取ったグラスに口をつけた。
その時耳元の会話の中で標的の男が高笑いした。
──引っ掛かったな。
パリン、とグラスの割れる音がする。
ハーマイオニーは驚いて音の出どころを探そうとして顔を上げたとき、眩暈を覚えて机に手を付いた。
身体の重心が定まらずぐらりと傾き、耳元の嘲笑いが遠ざかり──
マスターがスープを皿によそってカウンターへ戻ってくるなり、おやと眉を上げた。カウンター席に座っていたはずの一人客も、後方に座っていた集団も忽然と消えていた。
一人客の座っていたカウンターテーブルの淵から、金色の蜂蜜酒のしずくがぽた、ぽた、と床に落ちてゆく。
To be continued
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