第9章


 あたりには水の匂いが濃く立ち込めていた。油屋の崖下にひろがる平原は、昨日の雨で大海原へと姿を変えたようだ。
 ハクは休むことなく夜空を飛び続けた。一刻も早く、千尋に会いたい。面と向かって、助けてくれた礼を言い、両親と共にもとの世界に帰れるのだと告げ、不安に駆られているだろうあの少女を安心させてやりたかった。
 やがて「沼の底」に降り立つと、その時をはかったように魔女の家の扉が開き、待ち焦がれた相手が中から顔を覗かせた。
「ハク!」
 目を潤ませながら、駆け寄ってきた千尋が額を擦り寄せてくる。ハクは目を閉じてその温もりに感じ入った。ほんの少し離れていただけなのに、随分と長いこと彼女を感じていなかったような気がしていた。
「フフフ、グッドタイミングね」
 千尋に続いて銭婆が外に出てくる。ハクが契約印を盗みに来た時に向けていた、肌を刺すかのような敵意は、いまは微塵も感じられない。この辺境の地で、牧歌的な生活を営む魔女にふさわしい、穏やかな空気をまとっている。
「おばあちゃん、ハク生きてた」
 犯した過ちに対して、心からの謝意を表わすために、ハクはそっとこうべを垂れた。
「ハク龍、あなたのしたことはもうとがめません。その代わり、その子をしっかり守るんだよ」
 銭婆と千尋のあいだには、このわずかな時間にかけがえのない絆が生まれたようだった。千尋は銭婆に本当の名を明かし、別れを名残惜しみながらも、ハクの背にまたがった。
「おばあちゃんありがとう、さようなら!」
 千尋とネズミを乗せて、ハクはふたたび青く冴え渡る夜空の高みをめざす。風を切り、たなびく雲を越え、清らかな月の光を浴びれば、龍の鱗がきらきらとその輝きを照り返した。
 ふと、ハクは懐かしい思いに駆られた。
 以前もこうして、誰かを、背に乗せたことがあるような気がした。
「──ハク、聞いて」
 背中から、千尋が語りかけてくる。
「お母さんから聞いたんで、自分ではおぼえてなかったんだけど……。わたし小さい時、川に落ちたことがあるの」
 千尋が迷い込んだ日に見た夢が、少しずつ、ハクの五感によみがえってくる。
 ──どこか冷たく心地よい場所で。
 幼い子どもの声を、耳にしたのではなかったか。
「その川はもうマンションになって、埋められちゃったんだって。──でも、いま思い出したの」
 ピンク色の小さなクツ。
 水の流れにまかれて、あっというまに消えていく。
 ──そのクツの持ち主は。
 あの時の、幼い子どもの名は。
「その川の名は……その川はね、コハクがわ……」
 胸の奥がざわざわと、さざめいている。
 龍の瞳は、さざなみのように遠くから押し寄せる感情に、みるみるうちに潤んでいく。

「あなたの本当の名は、コハクがわ」

 曇りがかっていた視界が、一気に晴れたかのようだった。
 目がかっと見開かれた瞬間、龍のすきとおる鱗が花びらのように舞い上がり、空に燦然と散らばっていった。
 失われたはずの記憶が奔流となって、ハクの脳裏に勢いよく流れこんでくる。 

 ──千尋。
 そうだ、あの子は千尋と言うのだった。

 その存在を確かめるように、ハクは千尋の手を強く握り締めた。
「千尋、ありがとう。私の本当の名は、ニギハヤミコハクヌシだ」
 千尋は目をみはる。
「ニギハヤミ?」
「ニギハヤミコハクヌシ」
 潤んで澄み渡った千尋の瞳から、大粒の涙があふれでて、あの日の川でたゆたっていた水泡のように、夜空へ浮かび上がっていった。
「すごい名前、神様みたい」
 そうだ、私は川の神だったのだと、ハクは感慨に深く浸る。
 取るに足らない魔女の手先などではない。小さいながら、ひとつの川をおさめる龍の神だったのだ。
 千尋の瞳と同じように、本当の姿を取り戻した彼の瞳もまた、澄んだ輝きを放っていた。
「私も思い出した。千尋が私の中に落ちた時のことを。クツを拾おうとしたんだよ」
「そう、コハクがわたしを浅瀬にはこんでくれたのね。うれしい……」
 額と額をあわせて目を閉じる。そうしていると、互いの心が触れているところから通い合うかのようだった。手に手を取り合い、解き放たれた喜びに心満たされながら、ハクは千尋とともに青い海原へと落ちていく。水面にぶつかるぎりぎりのところで千尋の片手を離し、ふたたび、星の散る空へと浮かび上がっていった。
 たなびく雲の上を飛んでいく。いつまでもこうして手を繋いでいたいとハクは思った。けれど千尋は、この世界に残るべき存在ではない。いつか千尋を川の浅瀬にはこんだように、今回も、もとの世界への帰り道を導いてやらなければならない。
 あふれる愛着の思いにふたをして、ハクは千尋に、これから彼女を待ち受ける試練について語り始めた。



 朝焼けを臨むころ、ようやく雲の先に、遠く霞む赤い高楼が見えてきた。
 少し前から、あんなにおしゃべりに花咲かせていたはずの千尋が、別人のように押し黙っている。
「千尋」
 ハクが静かに名を呼べば、千尋は前を向いたまま、神妙な顔をしてつぶやいた。
「……ちょっとだけ、怖くなってきちゃった」
 不安げに揺れる瞳を横目にとらえながら、ハクは元気づけるように、繋いだ手にほんの少し力をこめた。
「千尋なら、きっと大丈夫だよ」
「でも、もしわたしが失敗してしまったら?──お父さんもお母さんも、ずっと豚のまま?」
 両親にかけられた呪いを解くために、千尋はこれからこの世界のおきてに則って、試練を乗り越えなければならない。わずか十歳の人間の少女にとって、それがどれほどの重圧感を与えるものか、ハクとて解らないわけではない。
「千尋」
 緊張に固まる横顔に、ハクは問いかけた。
「千尋はご両親のことを、大切に想っている?」
「うん」
「とても、大事にしている?」
 千尋は力強く頷いた。
「だから、お父さんと、お母さんと、みんなで一緒に帰りたい」
 ハクの表情が、自然と和らぐ。
「その気持ちがあれば、大丈夫だよ」
「──本当に?」
「うん。きっと」
 確信めいた声と、繋いだ手にこめられた力。強張っていた千尋の肩から、わずかに力が抜けていた。


「大当たり──っ!」
 ヤンヤヤンヤの大喝采を目の当たりにして、ハクの胸には安堵と喜びと、そして一抹の寂寥感とがさざなみのように押し寄せてきた。
 自由をその手で勝ち取った千尋が、油屋の面々に騒々しく見送られながら、意気揚々と赤い橋を駆けてくる。
 その姿をまぶしく目に焼き付けながら、ハクは手を差し出した。
「行こう」
 手と手を取り合い、石段をおりて、誰もいない飲食街の大通りをまっすぐに走っていく。
 この町に迷い込んだ日、彼に手を引かれてびくびくしながら後をついてきていたはずの臆病な少女は、もういない。
 今、ハクの隣にいる千尋は、彼と足並みを揃え、しかと自分の足で地面を踏み締めている。
 あの時とは、違う。
 自分が行くべき場所がどこであるかを、千尋は知っている。
「水がない!」
 蝦蟇の石像まで来ると、青空の下で、緑なす草原がどこまでも続いていた。それでも確かにあたりに残る水の匂いを吸い込んで、ハクは、決然と告げた。
「私はこの先へは行けない」
 ゆるやかな風を顔に浴びながら、千尋が視線を向けてきた。
「千尋はもと来た道をたどればいいんだ。でも決して振り向いちゃいけないよ。トンネルを出るまではね」
「ハクは?ハクはどうするの?」
 千尋の背後には澄んだ青空が広がっていた。ハクは彼女が手にした自由へ、思いを馳せた。
「私は湯婆婆と話をつけて弟子をやめる。平気さ、本当の名を取り戻したから」
 この世界に心残りのないように、千尋を安心させたかった。
 そしてそれは、ハク自身の決意表明でもあった。
「もとの世界に私も戻るよ」
「またどこかで会える?」
 千尋が間髪入れずに聞いてくる。ハクは口元をゆるめた。
「うん、きっと」
「きっとよ」
「きっと。さあ行きな、振り向かないで」
 ハクの伸ばした手に導かれるようにして、千尋が石段をおり、そうして繋がれていた手は離れていった。
 少女が安全な場所にもどっていくことを喜ばしく思う一方で、大切な存在を手放さなければならない寂しさに、少年の心は強く揺さぶられる。
 かと言って、呼び止めることをせず。
 手をもう一度、握り返すこともせず。
 赤い時計台に向かって、振り返ることなく遠ざかっていく背を、同じ場所に立ったまま、最後まで見送った。

 少年はもう、あの日の川へはもどれない。
 少女と出会ったあの川はもう、人の手によって埋められてしまった。
 けれどトンネルの向こうに、龍の少年は、帰るべき場所を見つけた。
 だからこの世界で、生きて、生きて、生き抜くのだ。
 少女がそうして自由を手にしたように。
 いつの日かきっと──少女と同じ道をたどっていくために。



【終】

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