第8章


 魔女の私室の奥からは、不機嫌な怒鳴り声が漏れ聞こえていた。
「──あの子は自分の親を見捨てたんだ!」
 キッチンを前にして立ち尽くしたハクは、それは違う、と胸の内で否定する。
 湯婆婆は知らないのだ。不遇の目に遭った両親のことで、千尋がどれほど気をもんでいるのかを。彼女もまた、坊という子を持つ親であるはずなのに、健気に親を思う子の気持ちなど、すこしも理解していないのだ。
 千尋のことを何ひとつ知らない魔女に、これ以上、千尋を傷つけさせはしない。
「親豚は食べごろだろう。ベーコンにでもハムにでもしちまいな!」
 ハクは拳を強く握り締め、キッチン脇の入り口から歩み出た。
「お待ちください」
 パチパチと薪のはぜる音がする。暖炉のそばには風呂上がりの湯婆婆が腰かけており、兄役と父役、そして青蛙が、雁首揃えてその手前に正座していた。
 従業員たちは、突然背後から現れたハクを振り返り、一様に呆気に取られた様子で立ち上がる。
 つい先日、油屋にやってきたばかりの千尋を煙たがっていたはずの彼らが、たった今、魔女に千尋の助けを嘆願していた。
 自分の留守中、千尋がこの油屋でどれほど多くの心を変えたのかを、ハクはまざまざと思い知らされる。
「なんだいお前、生きていたのかい」
 役立たずの弟子が「穴」から生還を果たしたことになんの感慨を抱くこともなく、魔女は憎まれ口をたたいた。
 ハクは風刺をこめて淡々と告げる。
「まだ判りませんか。大切なものがすり替わったのに」
 弟子の不躾な物言いにも、魔女は余裕の態をくずさない。やはり、姉の目くらましにまんまと騙されているようだ。
 龍の正体を瞬時に見抜いた千尋。
 息子の偽者をいつまでも見破れずにいる湯婆婆。
 非力な人間とそしった少女に、自分が完全に打ち負かされたことを知れば、魔女はいったいどんな顔をするだろう。
 ハクが沈黙をつらぬいていると、どうやら彼が口から出まかせを言っているわけではないらしいことに、気付いたのだろう。湯婆婆ははたと目を見開き、何事かひらめいたように、三方にうずたかく積まれた砂金の一粒を手に取った。
 不敵に目を細める魔女。
 誤りを指摘するかのように、ハクは心もち目元を険しくする。
 そうして魔女の視線はようやく、本命へ向けられた。むせかえるような甘い匂いのする菓子の山にかこまれて、際限なく暴食をつづける巨大な赤ん坊。湯婆婆が何気ない所作で手を一文字に引けば、たちどころに魔法が解け、赤ん坊はみるみるうちに三匹の頭へと変化していった。
 頭たちがドアの向こうへ逃げていく。
 椅子の上の湯婆婆は、途方に暮れて、息子の名を呼ぶ。
「坊……」
 その瞬間、テーブルの上の砂金の山が不格好な音を立ててくずれ、ただの土くれに帰した。
 魔女は気が違ったようにキッチンを飛び出し、息子の部屋をさがしはじめる。クッションの山をかきわけ、空のベッドをあらため、ビロードのカーテンの向こうも確認するが、坊の姿はどこにも見当たらない。
 一連の行動を黙って見つめていたハクに、怒りの矛先は向けられた。怒髪天を衝く勢いで怒り狂う湯婆婆は、口から炎を噴きながら猛前とつめよってくる。
「あたしの坊をどこへやったァ!」
 血走った巨眼に見据えられ、長い髪にからめとられ、猛火にまかれながらも、ハクは身じろぎひとつせずに毅然とこたえた。
「銭婆のところです」
「銭婆!?」
 魔女の怒りは瞬時にして燃え尽きた。ざんばら髪のまま、ふらふらと足を引きずるようにして椅子に腰かける。
「なるほどね。性悪女め、それであたしに勝ったつもりかい」
 双子の姉妹の確執はハクの知るところではない。だが、銭婆の名を聞くや冷や水をあびたように鎮火した湯婆婆の様子を見るに、やはりあの姉は妹にとって相当の脅威なのだろうと思われた。
 だとすれば、ハクにとっては好都合だ。
「で、どうするんだい」
 じろりと見据えられる。ハクはすこしも怯むことなく、魔女を相手に取引をもちかけた。
「坊を連れ戻してきます。そのかわり、千と両親を人間の世界へ戻してやってください」
「それでお前はどうなるんだい」
 間をおかず切り返され、ハクは口をつぐむ。
「そのあとあたしに八つ裂きにされてもいいんかい!」
 脅しではなく、本気なのだろう。
 師匠の目を見つめ返しながら、弟子は静かに首を振った。
「いいえ」
 魔女の目が険悪にゆがむ。だが龍の少年には、実現するあてのない口約束を交わすつもりは毛頭ない。
「私との契約は続いているはずです。私が『ここで働く』と言い続けるかぎり、あなたは私に手出しできない」
 湯婆婆は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
 働きたいものには仕事を与える。それが魔女の契約印によって約束された、この油屋での決まり事だ。たとえハクが破門となり、魔女の弟子でなくなったとしても、油屋の従業員としての契約にはなんら障りはない。
 だから。
「坊を連れ戻し、千と両親がもとの世界へ戻った後に、どうするつもりかとお聞きになりましたね」
 眉ひとつ動かさずに、ハクは言い切った。
「私はここで働き続けます」
 明確な意思表示は、契約の確認にほかならない。
 湯婆婆は、憂さ晴らしに八つ裂きにすることができなくなった相手を、まじまじと見つめ返した。
「ふてぶてしい龍もいたもんだね」
 いまいましそうにぼやく。ハクが顔色ひとつ変えずにいるのがおもしろくないようだ。
 ハクも内心、自分の胆力に驚いていた。
 ただ、千尋に救ってもらった命を無駄にしたくなかった。
 きっとその思いが、魔女の圧力に打ち勝ったのだ。
「必ず坊を連れ戻して来ます」
 わかったから、さっさと行きな、と、湯婆婆はなげやりに追い払うしぐさをした。




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