花嫁 - 27 - 「そんなところにいては危ない。三の姫、こちらへ下りていらっしゃい」 まるで聞き分けのない幼子をなだめるような物言いだ。 樹上のサンは怒りに燃えながら、余裕の笑みを浮かべて自分を見上げる若者を激しく罵倒した。 「ふざけるな!私の大切な存在を手にかけ、傷をつけた貴様のことは……決して許さぬ!」 景朗がぴくりと眉を動かした。 「姫、私はあなたの許婚なのですよ。そのようにつれないことを仰らないでください」 「誰が許婚なものかっ、貴様など顔も見たくない!」 サンは歯軋りしながらアシタカと山犬の兄を見下ろす。一人と一頭では多勢に無勢だったのだろう。アシタカは縄で雁字搦めにされ、地に倒れ伏せた兄はしたたかに攻撃されたのか、身動きが取れぬまま低い呻き声を発している。 兵に囲まれたアシタカは、樹上のサンを射抜くように強い瞳で見上げている。今すぐ森に身を隠せ、この者達の言いなりになってはいけない、と必死に訴えかけているのがわかる。 だがサンは彼らを見捨てるわけにはいかなかった。一人と一頭は人質にとられたのだ。サンを意のままに動かすための。彼女がこの場を離れれば、きっと、掛け替えのない彼らがこの無遠慮な人間達によってひどく痛めつけられてしまうだろう。 「だから、人間は嫌いなんだ……」 心もとなく震えるサンの声。だがその瞳は揺らぐことなく、憎き敵を見据えていた。猛将の振るう刃の切先や名手の射る矢の鏃もかくやと思われるほど剣呑な眼差しを、若者は穏やかに微笑みながら受け止めている。 「私と共においでなさい。そうしてくださるのなら、こちらのお二方にはもう危害を加えたりなどいたしませんから」 「この私を脅迫するのか?貴様のごとき人間が」 「脅迫ではなく提案です。姫、私はあなたに誠意を示しているのですよ」 これのどこが誠意だ。憤慨したサンは小刀の切先で忌々しい若者の喉笛を刺し貫いてやりたい衝動に駆られるが、人質の安否を気遣い、どうにか思い留まった。 「……私を屋敷へ連れ戻すようにと、あの女に命じられたのか?」 「あの女?──ああ、中条の奥方様のことですね」 景朗は笑みを深める。 「それは違います。あなたを迎えに来ることは、私の一存で決めたことですから」 怪訝に眉をひそめて応じるふりをしながら、サンはほんの一瞬ちらりとアシタカへ視線を移す。会話で時間を稼いでいる隙に、彼が活路を見出してくれることを期待していたのだ。 案の定、アシタカは周囲がサンと景朗のやり取りに気を取られている隙に、じりじりと後退して兵の一人に近づいている。もう少し間合いを詰めれば、後ろ手で刀を奪い取ることも不可能ではない。 「約束をいただきたく存じます」 突然、景朗が真顔になって要求してきた。 サンは目を細める。 「約束、だと?」 「はい。私の花嫁になると、今この場で約束なさいませ」 馬鹿げたことを、と思う。たとえ時間を稼ぐための束の間の口約束だとしても、こんな男の意のままになるものか。 サンが鼻で笑うのを、若者は見越していたようだった。人質を流し見、片方の口辺をわずかにもちあげる。 「さもなくば、姫。──この男と山犬は、まもなくここで命を落とすことになりましょう」 【続】 back |