赤い組紐  ムース×シャンプー


 
 鏡台の前で髪を梳かしている彼女の背後を、ほくほく顔の幼馴染みが陣取る。
 一つ屋根の下に暮らす食客であり、挙式を明日に控えた花婿であるとはいえ、未婚の女の部屋に勝手に入ってくるなと前々から何度も言っているのだが、さしもの女傑もこのところ随分とこの青年には甘くなってしまった。
 締まりのない花婿の顔を鏡越しに見つめる花嫁の表情は、呆れ果てたようでいて、このうえなく優しげでもある。
「そんなに楽しみか?」
 答えを知りながら聞いてみれば、案の定子供のように屈託のない笑みを浮かべながら、花婿は何度も頷いた。彼女の手から櫛をとりあげ、乾かしたての長い髪を丹念に梳いてやる。
 楽しみすぎて、気分が高揚して、今夜は眠れそうにもないという。
 くすぐったい思いに駆られながら、彼女は少しだけ俯いてほころぶ口元を隠した。
 髪を梳かし終えると、後ろから抱き締められた。惜しみない愛の言葉を耳元に囁かれて、花嫁はうっそりと目を細める。以前はこの男に触れられるたびに容赦なく鉄拳を食らわしていたものだが、彼を花婿にすると心に決めた時からそういう暴挙は控えるようになった。
 衣桁にかけられた赤い花嫁衣裳をふと見やり、花婿は、まるで夢を見ているようだと言った。
 花嫁は、ころころと鈴を鳴らしたような声で笑う。
「夢じゃないね。──実は、こうなることは、十年以上も前から分かってたある」
 花婿が小首を傾げている。花嫁は目を閉じて、記憶の抽斗【ひきだし】から、幼き日の忘れがたい思い出をそっと取り上げた。


 女傑族の武術修行は、女児の物心もつかぬ幼いうちから始められる。
 歴代族長を輩出してきた最も栄えある血族に生まれた娘・シャンプーもまた例外ではない。いや、むしろ次期総帥の重責をになう娘であるからこそ、周囲からの期待に抑圧され、修道は一層過酷なものとなったといえるだろう。
 言葉を話すよりも先に拳法を体得し、世の中の仕組みを学ぶよりも先に、剣術と槍術を覚えた。地道な修行の積み重ねによって、幼年のうちに早くも開花した天賦の才は、シャンプーを同輩の娘達と明確に分け隔てた。
 他族の少年・ムースがシャンプーに一目惚れし、たどたどしく求婚してきたのは丁度その頃のことだ。いかにもひ弱そうな少年で、幼心ながらシャンプーはどうも彼のことが気に入らなかった。軟弱な男に嫁ぐことは、女傑族に生まれた女にとって最大の生き恥である。掟に従い、シャンプーは少年を叩きのめしてやったが、敗者となってもなおムースはしぶとく根気強かった。

 ムースと出会って数年が経ったある冬、シャンプーは単身、霊峰と名高い山脈地帯へ修行の旅に訪れた。一月ほど山籠もりの修練に明け暮れ、帰還するために山麓へ下りた日のことである。
 ──男女の縁を司る、月下氷人に出会ったのは。
 月の光差す山麓の湖には、うっすらと氷が張られていた。氷人はみすぼらしい身なりの老人で、水辺の岩に腰かけて黙々と本を読んでいた。シャンプーは好奇心に駆られてその本を覗き込んでみたが、見たことのない文字が連なるばかりで、読むことができない。
 老人はシャンプーに、その本は黄泉の言葉でこの世の男女の縁を記録した名簿であり、そこにはシャンプーと、彼女の花婿となる男の名前も書いてあるのだと教えた。また、その男と彼女が結ばれることは宿命であり、彼女ほどの女傑がどれほどあがいたとしても、その運命を変えることはできないという。
 シャンプーは神や黄泉や運命などとといった不確かなものははなから信じていなかったので、からかい混じりにその男の名前を聞いてみた。すると老人は、懐から一本の赤い組紐を取り出し、片端をシャンプーの手首に括ると、もう片方を湖の氷につけてみるようにと促してくる。
 胡散臭く思いながらも言われたとおりにしてみると、不思議なことが起こった。組紐の先がずぶずぶと氷の中にのまれていき、尋常でない力で湖に引き寄せられる。さすがに驚いて手首の紐をほどこうとする彼女だが、きつく結わえられていてびくともしない。
 さらにシャンプーをぎょっとさせたのは、氷の中に見知った少年の姿が浮かび上がったことである。もしや氷の下で溺れているのかと思い、咄嗟にもう片方の拳を振り上げて、湖の氷をかち割っていた。すると少年の姿は幻のようにかき消え、彼女の手首に括りつけられていたあの組紐もあっけなく霧散する。
 振り返ってみると、あのいわくありげな老人も、いつの間にやら忽然と姿を消していた。


「私、女傑族の女。運命だろうが神様だろうが、誰かの言いなりになるのは耐えられないね」
 花嫁は自分の手首を見つめる。
 あの出来事が現実だったのか、あるいは霊峰が見せた他愛もない夢でしかなかったのか、今となってはもうどうでもいいことだ。
 背後では花婿が、半信半疑といった面持ちで鏡面の彼女を見つめている。
「だからあのじいさんに会ってから、おまえを前よりももっと嫌いになった。──嫌いになろうとした」
 鼻で冷たくあしらい、容赦なく踏みにじり、他の男に夢中になろうとさえした。
 でも、結局、運命には抗えず、こうして相愛の仲になってしまった。
 彼女の言い草から、ひょっとすると今でも嫌われているのだろうかと、疑心暗鬼になったのかもしれない。しゅんと肩を落とす花婿を、笑いながら花嫁は振り返る。
「ムース」
 下からそっと口づけてやれば、見慣れた丸眼鏡の奥で彼は大きく目を見開いた。
 そういえば自分からしたのは初めてかもしれない、と思いながら花嫁は邪魔な眼鏡をはずしてやり、そのうっすらと紅潮した頬に手を添える。
「おまえとの結婚は、私の人生で唯一の敗北ね」
「敗北?」
「──おまえの執念の勝利ある」
 花婿は端整な顔をほころばせ、その存在を確かめるように、彼女を強く抱き締めてくる。
 きつく結わえて離さない。
 あの日の赤い組紐が、二人を繋いでいるのが花嫁の目に見えたような気がした。









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