銀河の調べ



「このように星が美しい夜は、庭に出て、静かに楽の音など聴いていたいものだ」
 ある夜、後宮を訪れた皇帝双槐樹がこんなことをつぶやいたので、以来皇帝の正室である銀正妃は健気にも楽器の稽古に励んでいた。いつか師をも唸らせるほど上手くなったら、皇帝の前で演奏してみたいと思っていたのだが、どうやら「秘密」のはずの稽古はとうに皇帝の知るところであったらしい。
「銀河、外を見て御覧。今宵も星が美しいよ」
 またある夜、正妃の寝室を訪れた双槐樹は銀河の手を引いて、にっこりと天人の笑みを浮かべ、こう言ったのだった。
「折角だから庭へ出ようか。待ちに焦がれたお前様の琴を、今宵こそは聴かせてくれるね?」
 いやいや、まだ稽古中で下手だから、とても人に聴かせられる腕前じゃないから、と顔を赤くしてあれこれ銀河が言い訳をしても、双槐樹は玉をころがすように涼やかな声で笑うばかり、まるで聞く耳を持たなかった。
「勿体ぶらずに聴かせておくれ。たとえ下手だとしても、決して笑ったりしないから」
 宦官に指示して庭に緋毛氈を敷かせ、椅子を二脚用意させて銀河に座るよう促した。しかし、独りで弾くのはしのびないと、彼女がなかなか引こうとしない。聴き役に徹するつもりだった双槐樹だが、ならば致し方あるまいと心変わりした。
 ──小ぶりの月琴を真剣にかき鳴らす銀河。その傍らで双槐樹もまた、螺鈿細工の見事な阮咸を爪弾いている。中心には素乾国皇帝の紋章があしらわれ、周りをさまざまな霊鳥や瑞獣、花や草に似た形の吉祥文様が取り囲んでいる。翡翠、琥珀、珊瑚、玻璃、宝玉がふんだんにちりばめられており、篝火の明かりを映して時折ちらちらと星のように瞬いた。
 双槐樹は音を途切れさせることなく、隣の銀河へ視線を流す。見つめられていることにも気づかず、前のめりになるほど演奏に集中している様は、何ともいじらしい。自分のために、これほど熱心に稽古していたのかと思うと、愛おしさに心擽られ、胸が締め付けられるようだ。
「──銀河、なかなか筋がいいね。老師【せんせい】もさぞ鼻が高いであろうよ」
「そうかな?もっとおしとやかに弾きなさい、って、いつも注意されてばかりだよ。銀河がおしとやかになんて、なれるわけないのにねえ」
 けらけらと笑う銀河。弾き手の調子に合わせ、月琴の音も陽気にはね上がる。双槐樹は飽きもせずにその様子を眺めている。まだ横顔にあどけなさの残るこの娘が、一国の皇帝の正妃とは。いずれ皇太子を産む立場にある国母とは──。彼女を立后した本人でさえ、信じがたい思いでいる。
 私の花嫁は、まだこんなにも幼い。それでいて、これほどまでに私の心を──。
「いつか、コリューンみたいに上手く弾けるようになるかなあ。コリューンの隣で月琴を弾いていても、恥ずかしくないと思えるように、なれるかしら?」
 双槐樹は足下に阮咸を置き、立ち上がった。頭上を見上げてみれば、夜空を流れる銀の河が──未だ果てしなく遠くはあれど──手を伸ばせばほんの少し、彼に近づいたような気がした。
 降りそそぐ星の雫を手のひらに受けとめて、双槐樹は微笑する。
 ただ、こうしてそばにいるだけで、これほど幸福なのだ。
 もし、銀河を残らず飲み干してしまえたなら、どれほど満ち足りた気持ちになれるだろう──。
「銀河、何ひとつ恥じることはない。──お前様ほどの正妃は、この素乾国のどこを捜したって、見つかりはしなかったであろうよ」
 銀河の手から、鼈甲の義甲がぽろりと落ちた。星明かりを浴びて彼女に笑いかける双槐樹の姿が、さながら月神のような神々しさを纏っており、それを目の当たりにしてしまった彼女は、口を薄く開けたまま、魂を奪われたように見蕩れてしまったのだ。
 彼は屈んで毛氈に落ちた義甲を拾い上げ、銀河の手にそっと握らせた。そうすることで初めて、銀河の手にたこが出来ていることに気付いた。手のひらをまじまじと見つめてくる双槐樹に、銀河がはっと我に返る。
「べつに隠そうとしたわけじゃないの!こんなの、痛くもないし、どうってことないから──」
 痛くないはずがない。どれほど稽古に励めば、このような手になるのだ。
 底なしの海のように深い情愛を覚え、居た堪れなくなった双槐樹は、そのいじらしい手のひらに唇を落とした。
「星の廻り合せに感謝しているよ。銀河、お前様をこの世に生み落してくださった、お父上とお母上にも」
 いつか銀河の故郷へ、挨拶参りできるだろうか。
 光り輝く銀の河、星の流れがいずる所とは、一体どのような地であろう──。
 まだ見ぬ未来に思いを馳せ、若き皇帝は白皙のかんばせを輝かせるのだった。






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