深淵



「随分と冷え込んできたわね」
 かごめはかじかむ手に息を吹きかけている。薪集めのために森へ行くという犬夜叉に、薬草取りの名目でついて来たのだ。
「だから家にいろって言ったんだ」
「……だって」
 白い頬をにわかに紅潮させて、空いている方の彼の手にそっと指を絡めてくる。
「たまには二人きりになりたいじゃない?」
 木々の間を吹き抜けてかごめの黒髪をなびかせる秋風に、かすかに冬の匂いが混じるようになったのはいつからだったか。その匂いは、日を追うごとに濃くなっていく。
「人肌恋しい季節よね」
 歩きながら妻が呟くので、彼はふと口元を緩め、繋いだ手に少しばかり力を籠めて握り返した。
「そうやって、去年も一昨年もその前も、おまえはおれを焚き付けた」
「……」
「憶えてるか?」
 馬鹿、とかごめが言うことを予期した犬夜叉は先回りしてその唇を塞いだ。啄むように口づけて、相手の反応を窺う。色好い様子だったのでもう一度、今度は心置きなく堪能する。
 ──たまには二人きりになりたい。彼とて彼女と同じ思いを抱いていた。子供達が生まれてからは、祝言の後に急ごしらえで建てた家が随分と狭く感じられる。夫婦水入らずの時間は、今となってはほぼ皆無といっていい。
 唇を離して、犬夜叉はふと呟く。
「今年はあいつらに見せてやれるかもな」
「……何を?」
「弟か、妹」
 調子に乗るんじゃないの、と顔を赤らめたかごめに脇腹を小突かれた。そうはいっても彼女自身満更でもないことを知っているので、犬夜叉は痛くも痒くもない。
 他愛もない冗談を交えつつ恋人気分で歩いていると、つい甘い時間に溺れて向かっている方角を見失ってしまう。
 鬱蒼と茂る木々を抜け、ふと開けた視界の先に見えたもの。彼が反射的に身を硬直させるより先に、傍らの彼女が、
「あ──」
 声をあげたきり、繋いでいた手を離して駆けていく。
 半妖はその場に立ち止まり、しばし金の双眸を揺らして遠ざかる背を見送った。

 現在、骨喰いの井戸は封じられている。
 少し前までは悪しき妖怪の屍骸を葬り去る捨て場として重用されていた。いつからかその周辺は注連縄で囲われ、常人の立ち入れぬ禁域として近隣の人々に知らしめられている。
 気紛れに落ちた子供を飲み込むからだとか、捨てたはずの妖怪の屍を吐き出すからだとか、様々な噂がまことしやかに囁かれているが、真偽の程は誰にも判らない。
「それにしても、誰が封印したのかしらね?」
 村の巫女であるかごめでさえも立ち入れなくなった。注連縄の前で立ち止まる彼女に、犬夜叉は背後から押し殺した声で問いかける。
「──気になるのか?」
「うん……でも、もう私には関係ない井戸だもんね」
 気にしないわ、と振り返ったかごめはその唇に明るい笑みを刷く。
 犬夜叉はそれ以上を聞くことはしない。
 自らの手であえて不安の根を深めるような愚かな真似はしない。
「そろそろ行こっか。あの子達が待ってるし」
 ああ、と生返事をする。
 半妖は一瞬、巫女の視線が自分から逸れたその僅かな間、ほんの一瞥を井戸に投げかけて──
 時空の深淵を垣間見る。
 果てのない、暗澹と広がる深い闇。
 途方もない時空の流れへ通じる井戸に、底など存在しないことを彼は知っている。
 かつてその闇の彼方、遥か遠い未来に生きていた、彼にとって掛け替えのない存在。時空はかごめを唐突にこの時代に吐き出し、再び飲み込んだかと思うと、ある日また吐き出した。
 犬夜叉がその手を取り、今、かごめはここにいる。
 もう二度と、時の流れに翻弄されてなるものかと、心に固く誓った。
「犬夜叉?」
 無性にかごめの温もりが恋しくなって、犬夜叉は腕の中に彼女を閉じ込めた。枯れ井戸を封じてもなお、時として不安に駆られ、こうして闇の深淵を覗き見る。
 ──おまえひとりのものにはさせぬと、時が嘲笑っているのかもしれない。
 ならばその意志に抗ってでも、この手で引き留め、繋ぎ止めてみせるまで。
「かごめ」
 なあに、と彼の胸から顔を上げて問いかけてくるかごめ。切情を籠めてその瞳を見下ろす彼の真意に、彼女は気付いているだろうか。
「──ずっと、傍にいてくれるか?」
 彼にとって、この世で最も得がたい存在。彼女だけが、底知れぬ闇をも明るく照らし出すような笑顔で、彼の心を慰めるのだった。
「当たり前じゃない、犬夜叉」





2016.11.07 こま子鞠井様リクエスト「犬かご」「深い」




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