whisper of the angel
「六道くん」
振り向いたりんねの唇に、イルカの鼻先がむにゅっと押し当てられる。
「……真宮桜?」
桜は肩を竦めていたずらっぽく笑う。イルカを自分の方に向けると、その鼻先に、そっとキスをした。
「六道くんと、しちゃった」
「え」
「間接キス」
りんねは唇をおさえて、桜とイルカとを交互に見つめる。
間接キス。間接とはいえ、キスはキスだ。
みるみるうちにその白い頬が薔薇色に染まっていく。
「嫌だった?」
いやいやいや、と水浴びした後の犬のように首を振るりんね。
「す、少し驚いただけだ」
「驚かせちゃった?」
「──少しだけ」
桜の大きな瞳が夜空にちらばる星のように輝いている。
「六道くんって、奥手な人なんだよね」
「奥手……そうだろうか」
「私ね、」
さくらんぼのようにみずみずしい唇から目が離せない。
「そういう人って、優しくて、好き」
爆発寸前のりんねの腕に、桜がにこにこと笑いながら、自分の両腕をからめてきた。
こういうことは、やはり男がリードするべきなのだろうか?
彼女がこれほどまでに積極的に彼との接触を求めてきたことはない。
男として、ここは誠心誠意、彼女の期待にこたえるべきなのではないだろうか──?
「何を考えているの?」
「何をって……」
「私のこと?」
甘えてくる声のかわいらしさにほだされて、りんねは耳まで赤らめながら、つい何度も頷いてしまう。
「真宮桜のことで、」
「私のことで?」
「その──頭がいっぱいです」
顔から火をふきそうになりながらも、ありったけの勇気を振り絞って告白すれば、彼女はふと目を細めた。
「ねえ、六道くん」
ギイ、とベッドのスプリングがきしみ、二人の距離がまた数センチ縮まる。
もう隙間もないくらい、ぴったりと身を寄せ合っている。
「真宮桜」
「私ね、」
至近距離で目と目が合った。思わず生唾をのむりんねの耳元に、囁きかける天使の声。
「こういうこと、六道くんとなら、してもいいかも」
彼女の顔が近づいてくる。もうこれ以上、受け身になっていたくない──。りんねは咄嗟の判断で、彼女の肩に手を置いた。
彼の方から、したい。
「……目を、閉じてくれないか」
彼が柔らかい唇の感触を得ることはなかった。
突然、彼の言いつけ通り閉じられていたはずの両目がぱちりと見開かれ、なけなしのりんねの勇気を封じたのだ。
「ありがとう、六道くん」
桜はまごつくりんねをじっと見上げて告げる。
「なんか満足して出て行ったみたい」
「え?」
りんねはぽかんと口をあけた。
「出て行った、とは?」
その口ぶりに、桜は小首を傾げる。
「六道くん。もしかして、今まで気づいてなかった?」
「……」
「私が恋愛系の霊に意識をあずけてたこと」
りんねの額から汗が流れ落ちる。
桜はベッド脇の窓のカーテンを開けて、外をながめた。
りんね達と同年代とみられる少女の浮遊霊が、今まさに去っていこうとしていたところだったが、桜の視線に気付いて手を振ってくる。
桜が手を振り返すと、その隣のりんねにははにかむようなそぶりをみせて、ぺこりと頭を下げてきた。
「恋愛映画みたいに、男の子と甘い時間を過ごしてみたかったんだって」
住宅街の闇にまぎれてその姿が見えなくなるまで、桜は律儀に見送っていた。
「恋を知らずに病気で亡くなったんだって。どうすればあの霊が満足できるか、よくわからなかったけど、きっと六道くんなら解決してくれると思ったの」
カーテンをそっと閉じる桜。彼女のベッドの上で、りんねはただただ自分の失態を恥じている。
「この部屋は除霊砂時計があって、あの霊は入れないから、ほんの少しの間だけ意識をあずけたの。私の記憶はちゃんと残ってたから、あの霊は六道くんのこと、本当の恋人だと思ってたんじゃないかな」
りんねは頭を抱えている。──死神失格ではないか。霊の気配など、微塵も感じとっていなかった。確かに普段の彼女よりも、やけに積極的で奔放な印象はあったものの、まさか別人に意識をゆだねていたとは思いもよらなかった。
「か、間接キス……」
言いにくくてつい、口ごもる。
「あれも、霊の意志……なのか?」
「ああ、ぬいぐるみの?」
桜はあっさりと頷いた。
「あれはノーカウントだよね」
「え」
「だって、ぬいぐるみだし」
私の意志じゃないし、と桜は付け足す。
「そ、そうか……そうだったのか」
ぬか喜びした自分を恥じて深くうなだれる少年。
「そうだな。普段の真宮桜なら、ああいうことはしない……」
「騙されちゃった?」
すまん、と白状する。
「本物の真宮桜だと思って、あんなことを」
「ふうん」
桜は堪えきれなくなったように、ふふ、と笑った。
「本物の私になら、ああいうこと、してもいいと思ってるんだ」
目が合った。りんねにはもう言い逃れようがない。彼女に霊が宿っていたことを見破ることができなかった、その責めは甘んじて受け入れるつもりだ。だが「恋は盲目」であるという。愛する恋人からの歩み寄りに、真っ先に疑心を抱く男がどこにいるというのか。
「……そうだ、と言ったら?」
りんねは開き直って、桜の手をとる。
彼女は彼を買い被りすぎている。
死神である以前に、彼は男だ。
彼もまた、恋には目を曇らせる愚か者なのだ。
「お前は俺に幻滅するか?」
答える代わりに彼女は微笑んだ。膝立ちになって、彼の肩に手を添えて、そっと耳打ちする。
「──ファーストキス、しそこねちゃったね」
ほとんど吐息だけの天使の囁き。それはあの世でもこの世でも、ただ一人だけのもの。
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2016.11.01 かけいまこと様リクエスト「りんさくin桜の部屋」