音 | ナノ



「……どうした?」
 気配を消したりんねの声が、モノトーン調の部屋に静かに残響した。この人物の気配が感じられないのはいつものことなので、桜はさほど驚かなかった。
 振り返って見ると、葉末から露がこぼれるように、赤い髪先から雨が滴っていた。黒衣の肩元は濡れている。羽織を被(かづ)いて来れば雨露も少しはしのげたのに、と思いながら、桜は両手をりんねのこめかみの辺りへと伸ばした。袖元で、髪にまとわりつく水気を拭いてやった。
「ああ…すまん」
「風邪をひくよ。こんなにずぶ濡れになってたら」
「平気だ、このくらい」
 言いながらりんねは目を閉じた。その目蓋に髪から垂れた水滴が溢れる。それも拭いてやると、すまん、とりんねは同じ科白を繰り返した。
 髪を拭き終えて離れようとした手首を、彼はそっと掴まえた。外からは雨音と蛙の鳴く声がした。壁に掛けられた古時計は秒針を齷齪と動かしている。
「……さっき、何を考えてた?」
 推し量るような、静かな声だった。それは全ての音を押し退けて桜の耳に届く。詰問する調子ではなかったので、答えを言いたくない意志を篭めて、桜は唇を引き結んだ。
 およそ数十秒の沈黙があった。桜の手首を掴むりんねの手は、雨に濡れたせいかひやりと冷たい。血の通わない桜の手もまた冷たい。互いの物悲しいほど低い体温を感じながら、二人はほぼ同時に思い詰めた表情で顔を上げた。
「あの、」
「あのさ、」
 言葉が重なり、二人とも虚を衝かれた顔をした。
「……何?」
「いや…、お前が先に」
「ううん、私は後でいい。……何て言おうとしたの?」
 りんねは睫毛を伏せた。桜の掌を自らの頬にあてて、細く長い息をつきながら言う。
「……怖かった」
「…え?」
「…怖かった。嫌な天気になりだしてきたら急に、居ても経ってもいられなくなった。だから…帰ってきた」
「怖い…?怖い、って……何が?」
 桜は静かに訊く。雨音と蛙鳴と秒針の進む音を遠く聴きながら、りんねはひっそりとつぶやいた。
「お前が…いなくなるんじゃないかと思った」
 彼は彼女の手首を解放した。それから腕を伸ばして、壊れ物を抱くように、桜を腕(かいな)に閉じこめた。
 ──大丈夫。私はどこにもいかないよ。ずっと六道くんの側にいる。
 そう言ってやれない自分を、桜は酷薄なものだと思った。けれど、確約できない約束の言葉を口にするわけにはいかなかった。あらぬ望みを抱かせる言葉は時として、酷薄を通り越して残酷にさえ成り得る。
「何故、こんなに不安になるんだろうな。お前はここにいるのに……」
 一瞬にして闇にとけてしまうようなか細い声だった。──ごめんね、と心の中で桜は詫びた。けれど、何に対しての詫びの言葉なのかはわからなかった。
 彼女がじっと黙しているうち、りんねは彼女の背と膝裏とに手を当てて、桜を抱き上げた。まるで彼女の背に羽根が生えているかのように軽々と抱き上げた。やっぱり軽いな、と彼が小さく零した言葉が、桜には哀しく聞こえた。
 家具のとぼしい部屋を歩き、りんねは片隅に置かれた白いベッドに向かう。悲しい記憶が否応がなしによみがえる雨の日には、互いの不安を等分し合うかのように、ベッドの中で身を寄せ合うのが常になっていた。
 世界から音が消え、静寂が聴こえるまで。月が闇夜にのぼり、眠りが訪れるまで。
 りんねの腕枕に桜は頭をあずける。ほどかれた髪をりんねの手が梳く。時に視線が交わるとどちらともなく唇を寄せる。こんな日は身体を合わせても一層悲愴が増すだけだということを、二人は知っている。だからこんな日はきっと、ただ抱き締め合うくらいがちょうどいい。
 桜は耳を澄ませた。雨音と蛙鳴と秒針の音を聴く。それから、広い胸に耳を寄せた。黒衣の向こう側から、彼女にはない心音が聴こえた。
 ──いつか私は、この逃避行から逃げ出してしまうかもしれないよ。そしてあなたからも。
 世界が奏でるあらゆる音を聴きながら、桜は胸の裡で静かにそう告げた。何度目かの接吻が唇に降りる瞬間に。





end.
 
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