花嫁御寮 18: 赤い髪の子ども 「堕魔死神カンパニーの、社長の子……」 腕に抱きとめた子どもを見下ろす桜は、途方に暮れている。 赤い髪、赤い瞳。 信じられないとしても、信じるしかない。 その子どもは、まちがいなくあの一家の血筋だった。 「見れば見るほど、」 男が、独り言のようにつぶやく。 「──忌々しい子どもです」 静かだが、とげとげしい悪意の感じられる物言いだった。 突然の変貌ぶりに、桜は眉根を寄せる。 先程までの恐れをなしたような態度は演技だったのか。隻眼の男は仮面をつけたような無表情で、赤い髪の子どもを見つめていた。 「……あなたは、誰ですか?」 男は長い髪を後ろに掻き上げながら、気だるげに、警戒心をあらわにする桜に視線を向ける。 「誰だと思います?」 「あなたは──」 桜は彼の青い瞳から、目を逸らしたくなる衝動をこらえる。 なぜだろう。 眼帯をしているほうの目に、ただならぬ悪寒を覚えるのは。 「……人攫い、だと思います」 「ほう。人攫いですか」 守るように子どもを抱いたまま、桜は負けじと男を見つめ返す。 「あなたがこの子を、親御さんから攫ってきたんでしょう?」 隻眼の男は、にこりともしない。 「否定はしません」 「なら、おうちに帰してあげてください」 「なぜ?」 「……きっと、心配しています」 懐かしい彼の顔が、ふと、桜の脳裏を過ぎる。 高校時代のあの頃から、彼は世話焼きな人だった。クラブ棟に押しかけてきた小さな契約黒猫も、我儘な子供死神も、なんだかんだと言いながら、責任をもって面倒を見ていた。そんな彼が、自分の血をわけた子どもが攫われたと知ったら、いったい、どんな顔をするだろう。 ──ああ、そうか。 桜の目にじわりと涙が浮かぶ。 彼はもう、あの頃の彼ではないのだった。 数年ぶりに再会した彼は、もう、彼女の知る彼ではないのだった。 「どういうつもりで、ここに連れてきたのか知りませんけど……。私、この子の面倒は、……見れませんから」 これ以上、この見知らぬ相手と、会話を続けていたくなかった。 ──もう、このまま、ひとりにしてほしい。 赤い髪の子どもはまだ眠り足りないらしく、赤い目を半分だけとろんと開けて、可愛らしい欠伸をしている。 「彼」が、父親とうりふたつだったように。 この子も、父親とそっくりだった。 その重みを支える自信をなくした桜は、頼りなく震える腕で、隻眼の男に子どもを突き返す。 「いいのですか?僕に預けてしまっても」 いいはずがなかった。 だが桜とて、その子をどう扱ったらいいのか、皆目見当がつかない。 「お嬢さん」 隻眼の男は再び腕の中に戻ってきた子どもを、あたかも荷袋を手にしているかのように、心なく抱いている。 「あなたはこの子どもの親を、ご存知なのですね」 男の探るような眼差しから逃れるために、桜は背を向ける。 ──知りすぎてしまったと後悔するくらい、知っていた。 「お願いします。……その子を、ちゃんと親御さんのところへ帰してあげてください」 「……」 「お願いします」 男が、背後で踵を返す気配がした。 「あなたの願いを聞き届ける義理はありませんが、この子どもは親のもとへ帰しますよ。──本当は、現世のドブにでも捨てて帰りたいんですがね」 ──やっぱり、こんな人に、あの人の大切な子を預けられない。 たまらずに振り返ると、男が消えたであろう霊道は、すでにその影も形も留めていなかった。 依頼の案件に片を付けるや、翼はお礼のもてなしもそこそこに、タクシーで小一時間ほどかけて駅に向かい、一番早く出発する東京行きの新幹線に駆け込んだ。 予定では東京への帰りは明日か明後日になりそうだった。見積もりの時点では長丁場が見込まれたが、愛の力のなせる業か、存外早く仕事を終えることができたのである。婚約者が恋しくてならない彼は、一刻も早く二人の愛の巣へ帰宅したかったので、依頼人への挨拶さえおざなりに、東京へとんぼ返りしてきたというわけだ。 婚約者を驚かせたかったので、彼女の携帯に、今夜帰るという連絡はあえて入れなかった。みやげ物の笹かまぼこの入った紙袋を片手に、足取りも軽く新幹線を降り、東京駅から三界駅行きの電車に揺られ、鼻歌交じりに、愛しい彼女の待つ自宅の鍵をあけた。 ──廊下と、リビングの電気はついていなかった。 人の気配が感じられない。ひょっとすると出かけているのだろうかと、翼は少し残念に思う。 抜き足差し足、暗がりへ足を踏み入れ、手探りで照明のスイッチを押した。 オレンジ色のライトが温かく部屋を照らし出す。 彼の婚約者は、ソファに座っていた。 ブランケットをかぶり、膝を抱えている。彼が帰ってきたことにも、電気がついたことにも気づいていない。どうやら座ったまま、眠っているようだった。 彼女の隣に座れば、柔らかいソファーに腰がゆっくりと沈む。 しばらく満ち足りた表情でその寝顔を見つめていた翼だったが、次第にそれだけでは物足りなくなり、 「……桜」 肩を抱きながら、優しく呼びかけた。 朝露を弾く花びらのように、長い睫毛がかすかに震え、彼女がうっすらとその目を開ける。 「──、くん」 翼の顔から、微笑みが、手にすくった砂のようにさらさらと零れ落ちていく。 消え入るような声で彼女が囁いたその名は、──彼のものではなかった。 開いたばかりの花のような彼女の瞳が、再び、蕾のように固く閉ざされる。 涙がひとしずく、その白い頬を伝い落ちた。 ──彼女に何を言おうとしたのか。 ──彼女に何を言ってほしかったのか。 翼は瞬時にして、そのすべてを忘れ去っていた。 「……俺を見て」 震える声で、哀願する。 彼女はまだ春の夜の夢を、さまよっているのだろうか。 もう一度、夢見心地に開かれたその瞳は、彼を見ていながら、彼の顔を映してはいなかった。 ──あの男の夢を見ているのか。 ──あの男の赤い髪を、あの赤い目を、きみは懐かしんでいるのか。 ──涙が出るほど、名を呼んでしまうほど、切実に。 激しく燃え盛る嫉妬の炎は、彼の胸を焼け焦がすかのようだった。 それは六年の間、決して消えることのなかった──積もり積もった時という灰の中で、今もなお燻り続ける埋火【うずみび】。 「俺には、きみしかいないのに。俺は、」 ──ずっと昔から、きみのことしか見ていないのに。 声にならない叫びは、まどろみに落ちた彼女の耳には届かない。 ──おかえりなさい。 ただ、その一言がききたくて。 その一心で彼女のもとへ帰ってきたことなど、とうに忘れてしまっていた。 To be continued back |