086:死人


「桔梗、きさま、とうにあの世へ渡ったのではなかったか?」
 きさまにはかかわりのないことだ──巫女はにべもなくあしらった。
 既にこの世ならざる者同士。
 「逢魔が刻」にひっそりと生じる影なき姿を、とらえることができる唯一の相手。
 数奇な巡り合わせもあるものだ、と妖【あやかし】は思う。
「──奈落」
 山の端に暮れる夕陽に赤々と照らされた巫女の横顔は、あたかも血が通った肉体を取り戻したかのように、色づいて見える。
「おまえこそ、地獄へ落ちたのではなかったか?」
 くく、と妖は喉の奥で笑う。
 ──よい暇潰しを見つけたものよ。
 既に命なき今、さしたる用向きも見当たらぬ。かくなる上はすみやかに冥途を下るが道理であろうが、先に逝ったはずのこの巫女がこのように道草を食っているのであれば、くだらない道理とやらに従う道理もあるまい。
 己が手にかけた女の恨み言の一つや二つ、聞いてやることもできよう。
「この奈落が地獄に落ちることを望んでいたのか。残念だったな、桔梗」
「──きさまがどうなろうと、この私の知ったことではない」
 石段に腰を下ろした巫女の横顔に、生気はない。
 一度ならず二度までも、その命に手をかけたのは、ほかならぬ己自身である。
 妖ははたと、己の手を見つめる。
 ──夕陽に透かしたその手は、まるで血染めのよう。
「皮肉なものだな」
 石段の下に広がる人里を眺めていた、巫女の美しい瞳が、ようやく彼をとらえた。
「唯一の話し相手が、奈落、おまえとは」
「見たくもない男の顔を見ながら、黄泉へ下る気分はどうだ?桔梗」
 巫女は口を閉ざす。
 物憂げに、立てた片膝に腕をのせて。
 その目は日没の、遥か遠くを見据えていた。
「五百年──」
 抑揚のない、静かな声で巫女は続ける。
「私がさすらった年月だ。奈落、おまえには想像も及ばないだろう」
「ふん。わしの生涯は、せいぜい五十年足らずだからな」
「妹の楓よりも短命か。儚い生涯を存分に満喫したか?」
 毒づいているつもりなのかと横顔を見やるが、巫女の表情は石仏のように変わらない。
 腹の底の読めぬところは、生きていようと死んでいようと同じらしい。
 長い間、巫女は頑なに沈黙を守っていたが、石段にかかる鳥居の影が闇にとけこむ頃合いになって、ようやく口火を切った。
「『かごめ』として生まれ変わるまで、私は長らく孤独だった。──死してもなお、四魂の玉を守る役目からは逃れられなかった」
「──きさまが五百年の間、玉を守っていたというのか」
 巫女は頷く。
「悪しき心を持つ者は、どの時世にもはびこるものだからな」
 民家のひとつから、見慣れた人物が姿を現した。
 火鼠の衣をまとった少年。
 ひとりで森の方角へ歩いていく。
 あの半妖にとって、人間の家は塒【ねぐら】ではないのであろう。
 かつて己の愛した女と、その女に引導をくれてやった憎き男が、こうして亡霊となって高みの見物を決めこんでいることなど、知る由もあるまい。
 妖は巫女の横顔に視線を戻す。
 その視線の向けられた先は、新月の夜空であった。
「かごめとして生まれ変わることは、きさまの本望だったのか?」
 いや、と、巫女は静かに首を振る。
「だが、今はそれが最善だったと思っている。……犬夜叉を孤独にせずに済むのだから」
「かごめはこの戦国の世を去ったのだろう?」
「いや──去ってなどいない」
 その時、初めて、巫女は相好を崩した。
「かごめはきっと、戻ってくる」
 かごめ。
 かつて巫女は、あの少女に並々ならぬ敵意を抱いていたものだった。
 いつからであったか。
 凍てついたその敵意が、雪解けのように消えていったのは。
「かごめは私の『願い』そのものだ。五百年の時をかけて、ようやく巡り会った希望の光だ。──奈落、おまえの穢れた魂を浄化したのも、かごめなのだろう?」
 ──四魂の玉は、あんたの本当の願いを叶えてくれなかったのね。
 あの少女の言う通りだった。
 巫女と同じところへは、行けそうにないと思っていた。
「この奈落の願いが、あの人間の小娘ごときに叶えられようとは──」
「……何のことだ?」
 すまし顔だった巫女が、何事か聞きたそうにしている。
 妖は、意地悪く目を細めた。
「桔梗。それこそ、『きさまにはかかわりのないことだ』」
 意趣返しされたことに気づいたらしく、巫女は不愉快そうに目を逸らした。
「目障りだ。私の前から失せろ」
「きさまにとやかく言われる筋合いはない」
「そうか。──では、私が消えよう」
 言うが早いか、巫女は立ち上がる。
 今にも去っていきそうな巫女の手首を、焦燥に駆られた妖は、──咄嗟につかんで引きとめていた。
「奈落、何をしている?」
 己の眉間に皺が寄るのが、わかった。
「──どこへ行く?」
「どこへ行こうと、『きさまにとやかく言われる筋合いはない』」
 因果応報とはこのことか。
 巫女は、面白い見世物を目の当たりにしたかのように、唇の片端をもちあげた。
「なんだ。私があの世に飛んで行くとでも思ったか?」
「──うるさい。きさまなど、どこへでも行ってしまえばよいのだ」
「言われずともじき失せるつもりだが──何故、この手を離さない?」
 妖は手を緩めた。
 そうすることをためらう己自身に、少なからず動揺する。
「そう切ない顔をするな、奈落」
「──きさまの言うことは、いちいち癪に障る」
「では、ここから去ればいいだろう?」
 巫女は月のない夜空を仰ぐ。
「私が行かねばならない日まで、まだいくばくか時間がある。無駄話につきあうのが面倒なら、明日はここへは現れないことだな」





2016.10.01



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -