翠 子



 男は何人たりとも、かの巫女と目を合わせてはならぬ。
 口を利いてはならぬ。
 また、巫女の御体に手を触れることあらば、たちどころに天罰が下るであろう──。

 それは青年の村における厳格な掟であった。
 長老達を筆頭として、村人達は皆、類い稀なる霊力を有する巫女をまるで生き神のように崇め奉り、俗世と隔ててきた。その神憑った清らかさを、俗物の干渉によって損なわぬようにするための計らいである。
 この国において、巫女・翠子の名を知らぬ者はいない。
 物の怪の跋扈するこの時世、悪しきものの調伏を生業とする祓い屋の類いは枚挙にいとまがない。そうした中で、翠子は一際その異名を轟かせている。一度に十の妖怪を滅するともいわれるその非凡な霊力は、片田舎の農村などに留め置けるものではない。今や栄耀栄華を極める殿上人までもが、翠子の辣腕をみとめ、都に召し上げようとするほどである。
「翠子さまがお通りになられるぞ──。皆、心せよ」
 田畑を耕していた男衆は皆、目を伏せる。男が翠子を直視すれば神罰が下り、未来永劫地獄に落とされるであろう、という長老の戒めを恐れているのである。
 ──本当だろうか?
 青年は長らく、その戒めに疑念を抱いている。
 あの巫女もまた、一人の人間ではないのか──と。
 そのようなことは、口にすることさえ憚られてやまないが。

 幼き頃の翠子を、青年はよく知っている。
 ともに野山を駆け回り、遊んだ間柄だった。ある日突然、破魔の巫女としての役目を仰せつかるまで、翠子は青年の掛け替えのない幼馴染であった。
 あの頃の翠子は、ただの村娘でしかなかった。青年の冗談に屈託なく笑い、喧嘩をしては癇癪を起こし、可愛がっていた猫の死に涙を流し、青年の慰めに花咲くような笑顔を見せる。実の妹のように愛しい、一人の村娘でしかなかったのだ。
 それを村人達が勝手に祀り上げた。
 穢れを知らぬ、清らかな巫女として。
 俗人とはかけ離れた生き神として。

 畦道を歩いてゆく後ろ姿に、青年はあの頃の面影を見出そうとする。
 腰まで届いた豊かな黒髪。腰に帯びた破魔の剣。女将軍と見紛う鎧姿。
 今日もあの巫女は、葬り去った物の怪の夥しい返り血と、禍々しい怨念とを一身に浴びて、村へと帰還したのだろう。
「翠子さまは今宵、禊をなさるそうじゃ。よいか皆の衆、今宵は何人たりとも水辺に近づくこと、まかりならぬぞ」
 長老の言づてに、おお怖や怖や、と青年の近くにいた村人が鍬を振り下ろしながら呟く。
「罰当たりなことはするもんじゃねえな」
 神罰が下ろうと、構うものか。目を合わせることさえ許されぬというのなら、せめて後ろ姿だけでもよい、この目に焼き付けたい。
 青年は遠ざかってゆくその背を、憧憬と哀切を帯びた眼差しで見送る。
 ──なんと美しく、気高い女人に育ったことだろう。
 せめて俗人のままでいてくれたなら、この手も届いたものを──。





2016.09.23
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