行き触れ  - Chapter 4 -


 ──いつになったら現世へ帰れるんだろうか。
 窓の向こうでカラスがやかましく鳴いていた。これが地獄で迎える七度目の夕方だ。現世の夕暮れを恋しく思いながら、りんねは深く溜息をついた。壁際に背をつけて座る彼は、立てた膝に額を押し当てて蹲っている。自分の中で、この世ならざるものが静かな怒りをふつふつと滾らせているのがわかる。
「……なぜ、俺に取り憑いた?」
 めずらしく投げやりな口調でたずねる彼。一週間前から、何度も繰り返している質問だった。悪霊はやはり頑として口を割らない。答える代わりに彼の中でまた一段と邪気を増し、依代であるりんねにますます強い頭痛を与えた。
 頭が割れるように痛い。りんねは歯を食いしばり、こめかみを押さえた。これほどの邪気に触れるのは生まれて初めてのことで、心身共に相当こたえていた。すでに七日もの間、なす術なくこの悪魔の屋敷に閉じこもり、邪気を身体に溜め続けている。
 何とかこの状況を打破しければならない。そして一刻も早く現世へ戻りたい。りんねは根気づよく、再び悪霊に向けて語りかけた。
「もし現世に未練があるのなら、死神として出来る限りの手助けをしたいと思っている。本来、地獄は死神の管轄外だが──」
 地獄という場所は、生前罪を犯した者達が送り込まれる、いわば流刑地だ。魂は地獄を司る悪魔と鬼によって采配される。あの世からは独立した死の世界であるこの地獄での沙汰に、あの世に属する死神が干渉することは、本来であれば御法度だ。だがりんねにしてみれば、今は規則云々の話どころではない。悪霊に取り憑かれるというへまをしてしまったからには、自分で何とかして打開策を見いだす他ないのだから──。
 りんねは苦渋を味わう。悪霊に憑依されるなど、死神失格のレッテルを貼られたも同然だ。混血というハンディキャップに目を瞑ったとしても、若手死神の内ではまずまずの実力を持っているはずだと自負していた。そんなりんねにとっては、自尊心を著しく傷付けられる出来事だった。
「頼むから、何か教えてくれないか。このままでは、」
 ──いつまで経っても現世に帰れない。
 このような薄暗い世界からは一刻も早く立ち去りたかった。現世に戻り、いつも通り学校に行きたかった。
真宮桜はどうしているだろう。一週間も欠席していて心配をかけているだろうか。それとも自分のことなんて気にも留めていないだろうか。変な霊に付き纏われていたりしなければいいが。
 彼女のことをぼんやりと思い始めると、りんねは身の裡で悪霊がにわかにうごめき出したのがわかった。邪気が鉛のように重たくなり、四肢の自由が利かなくなりそうになる。桜のことを思って心を落ち着けようとする意思に反して、身体の奥底からじわじわとこみ上げてくる凶暴な衝動。それは魔狭人に遭遇したとき、彼に向かって死神の鎌を振り切った時に感じた衝動と、同じだった。──強い殺意。本来の彼とは無縁の衝動。壁に立て掛けた鎌に伸びかける手を、りんねはもう片方の手で、白い絨毯の上に押さえ付けた。
「何の真似だ。俺に人殺しをさせるために、取り憑いたのかっ」
 悪霊のひそやかな笑い声がりんねの頭の中でこだました。その救いようのない暗さに、背筋にぞっと寒気が走った。
「お前も、私と同じだ」
 りんねは魔狭人の言ったことを思い出す。
 鎌で危うく殺しかけたが、振り切る直前にどうにか理性が打ち克った。駄目もとで、現世の人間に危害を加えることがないように、悪霊を浄化するまでの間自宅へ匿ってくれないかときくと、何故か二つ返事で承諾してみせた悪魔。そのあと彼は言っていた。この霊は、千年以上も前に恋人と心中した人間が時を経て悪霊化した成れの果て。以来どの悪魔も鬼も手に負えないほどすさんでしまい、地獄をさまよい続けているらしい、と。
 現世に余程強い恨みと未練を残してきたのだろう。
 りんねはこれまで、自ら命を絶って亡くなった霊を扱ったことがなかった。死後の世界で自殺は大罪であり、理由の如何にかかわらず地獄行きとなる。よって死神の管轄外なのだった。どう向き合えば良いものか──、と苦悩する。悪魔や鬼のように慈悲の心を持たず接することができたなら、簡単な案件と言えるだろう。強制的に浄霊し、悪魔や鬼に引き渡してやればいいだけなのだから。だが心根の優しい死神の少年は、そういった強行手段を好まなかった。対話によってすさんだ魂を鎮め、出来ることなら理【ことわり】に反してでもこの地獄から連れ出して、輪廻の輪へ送り届けてやりたいと思っていた。
「──あなたと俺が同じとは、どういうことですか」
 ふだん霊と対話するときのように口調を改めて、りんねは慎重に訊ねた。悪霊はまた不気味な笑い声をこぼした。
「かなわぬ恋をしているだろう?」
 一瞬、呼吸を奪われた。つかの間の心の揺らぎを悪霊は見逃さず、鉛のような邪気をいっそう溜めこみながら語りかけ続ける。
「お前には迷いがある。私がかつて抱いていたものとよく似ている」
「……迷い?」
 動揺を悟られないように、りんねは息を潜めた。
「自分では幸せにしてやれない。そう思っているだろう」
「……」
「その一方で、誰にも渡したくないとも思っている。その狭間で、絶え間なく揺れ動いている」
 りんねは唇をつよく噛んだ。悪霊にそんなことを指摘されるとは想定外だった。
 ──やめろ、真宮桜だけは、傷付けたくない!
 悪霊に憑依され、人を傷付けようとする衝動がもたらされたとき、思わず口を衝いて出た一言だった。不思議なことに、自分の鎌が人を斬るかもしれないと恐れたとき、真っ先にりんねの頭に浮かんだのが桜の姿だったのだ。
それでも、これは恋ではない、ある種の連帯感でしかないはずだと、今までのりんねは自分に言い聞かせていた。恋と認めてしまうことから逃げていた。クラスメートという一線を越えてはいけないのだと。それは心に「迷い」があったからなのか。
「お前の迷いは居心地が良い。生きていた頃のことを思い出す……」
 不気味なほど静かな声にりんねははっとした。自分の中で邪気がより一層存在感を増したのがわかった。ふつふつと凶悪な衝動が沸き上がり、押さえ付けていた手では封じきれなくなってきた。
『何故私達が死ななければならなかったのだ。恨めしい、世の中全ての者達が、私を惑わしたあの女が──!』
 悪霊の激情がはぜる。恐ろしい衝動のほとばしりに、抑えが効かなくなったりんねの右手は、ついに鎌を掴んだ。
「六道くん!」
 声が聞こえたのはその時だった。
 視界の端で扉が開き、見馴れた制服のスカートがひらりと過ぎった。死神の鎌をかまえるりんねの顔が、冷水を浴びたような蒼白になる。
「来るな、」
 ──かなわぬ恋をしているだろう。
 悪霊の囁きが頭の中でこだまする。震える手は鎌を高く掲げた。鈍く光る刃が照明のシャンデリアを掠め、明かりが振り子のように左右へと揺れる。血を吐くような思いでりんねは叫んだ。
「俺から逃げろ、真宮桜──!」
 鎌を振り上げたりんねを見て、桜はその場に凍り付いた。足が竦んで動けなかった。間一髪、開いた扉の向こう側から伸びてきた翼が彼女を覆いかくし、扉の外へと引き戻した。
 扉が音を立てて閉まったのと、死神の鎌が鈍い音を立てて扉に突き刺さったのとは、ほぼ同時だった。
 りんねは糸が切れた人形のように、絨毯に力なく座り込んだ。






To be continued


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