切望


(小夏と右京)


 懸想した女性は、私にとっては高嶺の花だった。邪悪な継母達の呪縛を逃れ、着の身着のまま抜け忍となった私を、快く受け入れてくれた寛容な人。
 久遠寺右京。私の恩人にして、最愛の女性だ。
 彼女の為なら私はなんでもするだろう。それこそ窃盗や殺生すらも。どんなに薄汚れたことも厭わない。命じられたままに動くだけのただの傀儡に成り下がろうが、それであの人の望みに添えるのであれば構わない。彼女に全てを捧げる。それが私の何よりの喜びであり、唯一の生き甲斐なのだから。
 萎れた花のようにうなだれる右京さまの肩に、遠慮がちに手を添える。今、私は切実に、彼女が何かを望んでくれることを願っていた。
「……右京さま」
 女のように震える声が、我ながら情けない。
「私に、あなたの望みをお聞かせください」
 それでも彼女はまるで何も聞こえなかったかのように、畳をじっと見下ろし続けている。何故何も言ってくれない。何故私を見てくれない。こんなにも近くに私はいるのに。私は華奢な肩を掴んで揺さ振った。やる瀬なくて、あのおさげ髪の男が憎らしくて羨ましくて、涙が溢れた。矮小な私ごときでは、気高く強いこの人の心を、こんなにも揺さ振ることは出来ない。
「あなたを見向きもしない男のことなど、いっそのこともう、忘れてしまった方がいいのに」
 悲鳴のような声を上げる私を、長い黒髪を肩口から零しながら、彼女は虚ろに見上げる。いたたまれなくなった私は、腕の中にその無二の存在を掻き抱いた。彼女の身体は弛緩していて、抵抗のかけらも見せない。
 ――あなたを悲しませたあの男に、復讐したくはないのですか。
 邪な問い掛けが頭の中を幾度も駆け巡る。しかし彼女がそんなことを望むはずがないことは分かり切っている。この人は、失恋したからといって、好いた男を不幸に貶るような卑しい女ではないのだ。
「なあ、小夏。……そないに簡単に忘れられるもんなら、うちも苦労せえへんよ」
 か細い声でそう言って、右京さまは何か諦めたような、力無い微笑みを浮かべた。そして、さながら空蝉のようなその軽い身体を、私の胸に預けた。そんな抜け殻すらも、私は愛おしい。
 女の仮面をかなぐり捨てて、組み敷いた彼女を私は愛し尽くした。至高の人と肌を合わせる喜びと、空蝉を抱く虚しさ。どちらがより勝っていただろう。つかの間の快楽は極楽へ通じているのか、それとも、地獄へ通じているのか。
「乱ちゃん」
 達する間際、彼女が耳元で囁いた名を、私は永遠に忘れないだろう。

 窓を開けると、どこかからチャルメラの音が聞こえた。日暮れがまた一段と早まった。季節は既に晩夏に差し掛かっている。二匹繋がったままの蜻蛉が、目の前を過ぎる。薄い翅を危なっかしく動かしながら。
「……寒い」
 布団の中から彼女が寝ぼけた声で訴えかけてきた。慌てて窓を閉めて振り返る。
「右京さま、起きてらっしゃったんですね」
「たった今起きた」
 あられもない姿のまま、彼女は布団を這い出て、箪笥から夜着用の浴衣を引っ張り出した。帯を締めながら不意に、非難がましい目付きでこちらを見る。
「こら小夏。何見とんねん」
 私は狼狽した。すると、彼女は小さく吹き出した。
「嘘や嘘。遠慮せんでもええよ。裸見せ合う以上のことまでした仲やんけ」
 ころころと鈴を転がしたような声で彼女は笑う。私に心配をかけないよう、無理をして空元気を出しているのは明らかだった。男を演じ馴れた彼女は、自分を偽ることを躊躇しない。そのさまが痛々しくもひどく健気で、涙脆い私はまたしても視界が歪んだ。
「……小夏、泣いとるんか」
 今度は彼女が困惑する番だった。

 いつか、せめて私の前だけでは、この人が自分を偽ることなく、ありのままでいられるようになるといい。
 それが私の切なる望み。




end.



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