井戸のむこう 枯れ井戸の周りには注連縄が張り巡らされている。 長らく野ざらしにされてきたその井戸は、しだいに木が傷みつつある。これ以上老朽化が進まぬよう、いずれは祠を建てることになるだろう。 村を出て久しく帰郷した青年にとっては、懐かしい景色だった。 「あの井戸は、母上の国に通じていると聞きました」 母は遠い目をして井戸をながめていた。 「それ、父上から聞いたの?」 「いいえ。昔、楓さまから教わりました」 「楓おばあちゃん。──懐かしいわ」 かごめが微笑むと、つられて青年も屈託なく顔を綻ばせた。 母は息子である青年の、幼少のみぎりから変わらず、若くて美しい姿のままだ。 お世辞でも何でもなく、連れ立って歩いていれば、よく姉弟と間違えられる。 近頃は、青年のほうが兄かとさえ言われてしまう。 「母上のふるさとは、とても奇妙な場所だと父上が仰っていました」 「そうね。こっちの人にとっては、不思議なことばかりかもしれない。犬夜叉ったら、むこうではいつも問題ばっかり起こしてたんだから」 「父上が?」 「ええ。台所はめちゃくちゃにするし、納屋はぼろぼろになるし、私の自転車も壊すし……」 自転車、に首を傾げる彼。 「鉄の車よ。あんたの父上はそう呼んでいたわ」 くすくすと笑いながら、かごめは息子の名を呼んだ。 「なんでしょうか、母上」 「今年も孫の顔を見せにきてくれて、嬉しいわ」 「当然のことでしょう。あなたは私の母上なのですから」 青年の鼻は、近い所によく知る匂いを嗅ぎとっていた。 姿こそ見えないが、森のどこかから父が母を見守っているに違いない。 母の匂いを辿ってきたのだろう。 両親は、いつまでも羨ましいくらいの鴛鴦夫婦だ。 「やれやれ。息子とはいえ、母上との逢引も一苦労ですね」 鼻歌を歌いながら薬草を摘んでいる母には、聞こえていないようだった。 青年はもう一度、枯れ井戸に視線を向ける。 ──母がもう二度と帰ることのない故郷。 見ず知らずのその国とは、一体どのような場所なのだろう──と、思いを馳せていた。 戻 2016.09.23 |