花娘


 ああもうだめだ──。
 涙のにじむ目を固くつむった時、ぱしゃ、としぶきが上がる音がした。千尋の袴を性急に脱がせようとしていた客の手が離れた。はだけた水干の前を慌てて掻き合わせ、千尋は自分を貞操の危機から救ってくれたその救世主を見上げる。すずしげな水干。白く冷たいかんばせ。帳場係が薄ら笑いを浮かべていた。片手には透明の液体がなみなみと揺れる桶。もう片方の手には柄杓を握っている。その柄杓から、しずくがポタポタと滴り落ちて畳に染みをつくっていた。
 桶に入った酒を、客に柄杓でぶちまけたのだ。
「お客様。今宵は、酒を浴びるほどお飲みになられたようですね?」
 あざ笑うようなハクの物言いに、客は怒りで顔を真っ赤にした。
「おぬしのごとき帳場係風情が、このわしを愚弄するか!このような無礼は、許すまいぞ!」
「──黙られよ。さもなくばその口、二度ときけぬようにしてやる」
 ハクの声がすっと冷めた。とたんに客が、何か恐ろしいものを目の当たりにしたように表情をこわばらせ、そのまま石のように動かなくなってしまった。目があっただけで、彼の術にかかったのだろう。いつだって千尋には優しく接してくれる彼が、時として見せる他者への非情。石となった客を、ハクは通り過ぎざまに足で容赦なく蹴り飛ばした。それはだるまのように、ごろりと無造作に畳の上を転がった。
「安心しなさい。夜が明けるまで、目覚めはしない」
 目の前に片膝を付いたハクが、千尋の顔をじっと見つめて言った。千尋はその翡翠の瞳を正視できずに、目を逸らす。
「ハク、わたし……」
「私のせいだ」
 立てている方の片膝に腕をのせたハクが、そのままの体勢で深々と頭を下げた。まるで、戦いに敗れた騎士のようだ。「面目ない。そなたを、守ってやれなかった」
「ハク、顔を上げて!わたしなら大丈夫だから」
 おろおろする千尋に促されても顔を上げず、俯いたままの彼は苦渋に満ちた表情をしている。
「そなたが空元気を出そうが、私にはお見通しだ。私の罪は途方もなく重い。──あのような汚らわしい手を、千尋に触れさせてしまった」
 顔を上げたハクは、千尋の手を握った。その力強さに、射るような眼差しに、千尋はつい頬を上気させてしまう。
「どこに触れられた?」
「え?」
「あの客は、千尋のどこに触れたのだ?」
「ど、どこって」
 面食らう千尋にかまわず、ハクはぐっと身を乗り出して千尋の唇をうばった。突然のことに驚いた千尋が顔を背けると、今度はあらわになった白い首筋に顔を埋める。彼の唇が鎖骨の近くの肌に触れ、ちゅ、と吸い上げた。かすかな痛みに千尋は身を竦めた。千尋の肌に残った赤い痕を、ハクはどこか満足気に、舌の先でそっと舐める。
「くすぐったいよ──」
「ごめん。もう、終わったよ」
 気のおもむくままに千尋に自分の名残を残して、ようやく人心地がついたらしい。ハクは千尋を腕の中にすっぽりとおさめて、彼女を抱いたまま、ゆりかごのようにゆっくりと揺れはじめた。千尋はハクの胸に耳を押し当てて、水干越しに彼の心臓を聴いていた。
「ハク、いま、どきどきしてる?」
「千尋もだろう?」
「ハクも照れてるの?」
「愛しい娘をこうして抱いていて、平気でいられる男がいるだろうか?」
 千尋の頭に顎をのせて、ハクはほっと溜息をつく。花のような少女の香りが、すくすくと育ちつつある千尋の身体から、まるで匂い立つようだ。
 今はまだ、蕾のまま。けれどもう少し、花開くそのときまで、あと少しだ。
「そなたは私のもの。もう、誰にも触れさせはしないよ」
 この娘は、龍神が見初めた無二の花。
 いつかその花を摘むのは、決して他の誰かなどではない。



2015.04.28執筆 2016.09.18サイト収納
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