十 五 夜


 居間に飾っておいた月見団子が、ひとつなくなっていた。
 彼女が姑と仲良く手作りして、きれいに積み重ねて、つい先程置いたばかりのものが、である。
 人の目を盗んでこそこそとつまみ食いを働くような厚顔無恥の輩は、この六道家にひとりしかいない。
「乙女さん、猫じゃらしなんて持ち出してどうしたの?」
「魂子お義母さま」
 台所ののれんから、姑が顔を覗かせていた。
 炊きたての栗ご飯の匂いが、中からふわりと漂ってくる。
 ちょうど、さつまいもも蒸かしているところだ。
 十五夜の今日は、ちょっとした秋のご馳走である。
「あまり動き回ると、転んだりしたらよくないわ。特に今の時期は、廊下は走らないようにね?」
 優しくたしなめられて、乙女は頬を赤らめる。
「──すみません。泥棒猫を、懲らしめようかと」
「あら。ノラ猫がうちの中をうろついているの?」
「いえ、いつもの大きな泥棒猫ですわ、お義母さま」
 なんのことか察しがついたようで、義母は盛大な溜息をついた。
「まったく、仕方のない子ねえ。こんな時にもお嫁さんの手を煩わせるなんて……」
 魂子の手がのびて、そっと乙女の腹に触れた。
 まだ目立つほど大きくせり出てはいないが、その腹の中には六道家待望の初孫が宿っている。
「今日は、つわりは平気?」
「はい。今日は吐き気もないですし」
「本当に?ママは我慢強いからなあ」
 ごく自然に会話に加わっている人物が若干一名。
 乙女はすかさず、後ろを向いて猫じゃらしを突き出した。
「あはは!──ちょっと、ママ、一体どうしたんだい?」
 顔やら首やらを猫じゃらしでまさぐられて、鯖人はくすぐったそうに身をよじらせる。
「おーい、ぼくは猫じゃないったら!」
「この泥棒猫。せっかくきれいに並べたお団子、つまみ食いしたでしょっ」
「ええー?食べたのはぼくじゃないって。……盗んだのはぼくだけど」
「ほら、やっぱりあなたじゃない!」
 くすくす、と笑いながら魂子が台所に引っ込んだ頃合いを見計らって、猫じゃらし攻撃に耐えかねた鯖人が乙女の肩をそっと抱いた。
「ねえママ、ちょっとこっちに来て」
「何よ?」
「いいから、いいから」
 身重の妻をエスコートしながら、鯖人はにっこりと笑う。
「たまには、ぼくの『良い所』を見せておこうかと思ってね」
 そう言って連れてこられたのは、夫婦の使っている寝室だった。
 うながされて縁側に座ると、ニャア、と猫の鳴き声が庭から聞こえてくる。
「ほら、見てごらん」
 彼の指さす方には庭木が植えられていて、その根元には、小さな黒猫が丸まっていた。
 よく見ると、白くて丸い何かを舐めている。
「お団子はあの子にあげたの。ぼくが食べたんじゃないよ」
 鯖人が、それ見たか、という顔で横から乙女の顔を覗き込んでくる。
 乙女はばつが悪くなって、その顔を手のひらで無理やり押しのけた。
「ぼくたちがこれからおなかいっぱいになるのに、あの子だけ、せっかくの十五夜におなかすかせてたりしたら可哀想だからね。ノラ猫にも、幸せのおすそわけをしてあげたってわけさ」
「ふうん。……あなたにも、そういう優しさがあったのね」
「ちょっとはぼくに惚れ直した?」
 と、二人きりなのをいいことにいつになく過剰なスキンシップを求めてくるので、調子に乗るんじゃないの、と赤くなりながら乙女はそれをかわす。
 しばらくそんな埒の明かないやり取りをしていると、突然、乙女が手で口元を押さえだした。
「……ちょっと気持ち悪いかも」
 猫のようにじゃれていた鯖人が、あわてて彼女の背をさする。
「ママ、大丈夫かい?顔が真っ青だ」
「大丈……うっ」
 鯖人は咄嗟に、自分の羽織を脱いで差し出した。
 こみあげる吐き気をこらえきれず、乙女は、その中に戻してしまう。
 鯖人が持ってきてくれた水で口をゆすいで、身体がだるくて縁側で横になって、──そのまま眠ってしまったらしい。
 目を覚ますと、月の光がやわらかに彼女の顔に降り注いでいた。
 どこか遠くでコオロギの声が鳴り響いている。
 時折きこえる風の音は、さやさやと耳に心地良く、まるで田んぼの稲穂やすすきを揺らしているかのよう。
 夜空には、薄雲のかかった中秋の名月が浮かんでいる。
 しばらくぼんやりと見上げていると、不意に、月を誰かの顔が覆い隠した。
「……羽織、だめにしちゃってごめんね」
 彼はゆっくりと首を振る。
 どうやら、彼の膝枕で眠っていたようだ。
 胃が少しむかむかする。つわりはまだ、おさまってはいないらしい。
 目を開けていることが億劫で、閉じた目蓋を、彼の手のひらが覆ってくれたのを感じる。
 月の光がまぶしすぎることを、察してくれたらしい。
「──せっかくのお団子も、栗ご飯も、これじゃあ食べられないわね」
 残念そうなのを慰めるためか、鯖人が彼女の頭を撫でてきた。
 不意打ちで優しくされると、なんだか、涙が出てきそうになる。
「そんなに、食べたかったのかい?」
 ──あなたと一緒に食べたかった。
 今日だったら、吐き気もないから、一緒にお月見できそうだと思ったのに。
 いい年をした大人のくせに、つい子どものように駄々をこねてしまいそうになる。
 妊娠すると、些細なことで心がぐらついてしまうものだということは聞いていた。──けれど、自分がそうなるだろうとは考えもしなかった。
「十五夜がだめなら、明日の十六夜があるさ」
「うーん……でも、明日も食べられないかも。身体が重いし、今だって、まだちょっと吐きそうだし──」
「ママ」
 泣きべそをかいていることなんて、とうにお見通しだろう。
 目隠しをされたままなので、乙女は彼が今どんな顔をしているかわからない。
「──ひとりで休みたいの。あなたは、お義母さまたちと月見酒でも飲んできたらいいわ」
「いや、ぼくはここにいるよ」
「……」
「きみの側にいたい」
 彼は時々、冗談なのか本気なのかわからないことを言う。
 いつになく感傷的になっている今は、そんな彼の言葉が、清らかな水のようにすんなりと彼女の心に染み入っていくのだった。
「十七夜になろうが、十八夜になろうが、ぼくは一向にかまわないよ。──きみと見る月なら、ぼくはいつだってきれいに見えるんだから」
 口八丁のお調子者。
 けれど、今夜は──その言葉を信じてみたい。
「つわりがよくなったら、ママがやりたいこと、ぼくがなんでも聞いてあげるよ。きっと、我慢強いきみのことだから、今もたくさん我慢してるんだろう?」
 ──年下のくせに、生意気。
 けれどそんなところが、本当は、嫌いじゃない。
 きっと屈託なく笑っているだろう、夫の顔を思い浮かべながら、彼女は我知らずいつもの笑顔を取り戻しつつあった。
 


>>Back

2016.09.15 Harvest Moon


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -