夢 現




 妖は時の流れに頓着しない。
 ゆえにほんの一眠りの間に、人の住む世界において実に十数年もの月日が過ぎ去っていたとしても、とりわけ感慨を抱こうはずもないのである。
「殺生丸様、ようやくお目覚めで──!」
 目覚めてすぐに、耳にしたのは従者の声だった。
 些細なことでいちいち騒ぎ立てるのは、この従者のつねである。
「……騒ぐな。うるさい」
 殺生丸は、さして気に留めず、ゆっくりと横たえていた身を起こす。
 妖怪は眠らずとも、生きられる。
 日に一度床につかなければ生きてはゆけぬ、脆弱な人間とは、勝手が違うのである。
 だが、戦いにおいて浪費した妖力を回復するためには、眠ることがもっとも効果的だ。
 ──彼にとっては、ほんの一眠りのつもりだった。
 まばたきの間のように、取るに足らぬ一瞬でしかないはずであった。
「殺生丸様が、ようやくお目覚めに……。ああ、ですが、なにゆえもっとお早くお目覚めになられなかったのか……」
「……」
 殺生丸は、従者の嘆きぶりを訝しむ。
 彼が与えた人頭杖に縋りつき、巨眼を赤く腫らしてすすり泣いている。
 一体、何をそれほど悔やむことがあるというのか。
「せめてあと一年……。この邪見めは、何度も起こして差し上げようとしたのです。ですが結界に阻まれ、お体に触れることさえままならず……。殺生丸様が長らくお休みの間に、りんは、あの子は──」
 殺生丸の、目の色が変わった。
「りんが、どうした?」
 
  
 人里は様変わりしていた。
 よく見知った者達の匂いを掛け合わせたような、様々な匂いが入り混じっている。
 若い法師がひとり、村はずれから歩いてくる彼の姿を見るなり、目の色を険しくして錫杖をかまえた。
「この村に、何の用です?」
「……」
「答えなさい」
 面影がある。
 あの法師と退治屋を掛け合わせた、匂いがする。
 最後に目にした時は、まだ乳呑み子のはずであった。
 ただならぬ気配を感じてか、近くの民家から菰【こも】を捲り上げて、ひとりの女が顔をのぞかせる。
「──お義兄さん?」
 幻影を見たかのような、途方に暮れた表情。
 不快極まりない呼称を口にするのは、半妖の弟が娶った巫女である。
「どうして……。今の今まで、一体、どこで何してたのよ?」
 今にも泣きだしそうな顔をする。
 殺生丸は、義妹から目を逸らさぬまま、ただひとつの匂いを嗅ぎ当てる。
 匂いの持ち主は、かごめが出てきた民家の中にいた。
 義妹の後に続いて、戸口から、ゆっくりと姿を現す。
「──殺生丸様?」
 その声を聞いた時、殺生丸は初めて、最後にその声を耳にした日から、どれほどの時が流れたかを思い知った。
 十数年ごときでは、妖怪も自然もさして変わりはしない。
 人間が異なる時の流れに生きることを、いつしか忘れていたのやもしれぬ。
「本当に、本物?」
 同じことを、彼自身も疑問に思った。
 幼かったはずの少女が、見違えるような出で立ちでそこにいる。
 本当に、あれはりんなのだろうか。
 彼がよく見知った、あの娘なのであろうか。
「かごめ様。りん、夢を見てるのかな?」
 巫女が涙ぐみながら、その肩を抱く。
「夢なんかじゃない。──殺生丸が、会いに来たのよ」
「……うそ」
 ふらふらと、おぼつかない足取りで近付いてくる。
「また、会えるなんて、夢みたい……」
 そう言って、娘は大きな目から、大粒の涙をこぼした。
 乳呑み子を胸に抱えるりんの体つきは、見違えるようにまろみを帯びている。
 乳臭い赤子には、見知らぬ男と、りんの匂いが混ざっている。
 幼い子どもとばかり見ていた娘は、今や長じて、一児の母になったのだ。
 彼にとって、わずか一眠りでしかない時の間に。
「赤ちゃん、私がみててあげるから」
 かごめがりんの腕から、そっと赤子を抱きかかえる。
 りんは途方に暮れて、眠る赤子とかごめとを交互に眺めていた。
「お義兄さんと、二人で話をしておいで」
「かごめ様──」
「話したいこと、たくさんあるでしょう?」
 彼に向けられる義妹の眼差しは、咎めるような、それでいて何か痛ましいものを見るような、憐れみのこもったものだった。
 

 あの時こうしていれば良かった、などと後悔したことはなかった。
 ──ただ一度、りんを冥界に連れて行き、命の危機に晒したあの時を置いて他には。
 彼はつねに、己にとって最良の道を選択してきたはずだった。
 ゆえに過ちを悔いるなどということは、後にも先にもあの日限りと思っていた。
 二度と再び、あの娘のことで悔やむなどしないと。
 心にかたく決めたのだった。
「邪見様が、何度も会いに来てくれたよ」
 かつてのように、りんは彼の側に近づいてこようとはしない。
 声の届く最低限の距離を置いて、語りかけてくる。
 二人の間の隔たりは、埋まることのない時の溝そのもの。
 無邪気に彼の後をついてきたあの幼い少女は、もうどこにもいない。
「殺生丸様でも、お寝坊することって、あるんだね」
 笑い方がどこかぎこちないと思うのは、屈託のないあの笑顔に見慣れたせいだろうか。
「まるで眠り姫みたいだね。かごめ様から教えてもらった、海の向こうの御伽話なんだけどね──」
「りん」
「なあに?殺生丸様」
 思う間もなく、言葉が彼の口をついて出ていた。

「私と共に、来るか」

 墓石の側で赤い花が揺れている。
 地獄の釜が開く時に咲くその花を、彼岸花と人は呼ぶのだという。
 墓石に刻まれた、その名には見覚えがある。
 年老いたあの巫女は、世を去って久しいのだろう、すでに墓土から香る匂いは薄れつつある。
 いつの日か、りんが人と妖のどちらの側で生きるか、殺生丸自身が選択を迫る日が来るだろうと、巫女は予言していた。
 人里に預けておきながら、手放す気など毛頭なかったことを、あの隻眼の巫女は元より見抜いていたのだろう。
「……ありがとう」
 りんは微笑んでいる。
 言葉とは裏腹に、今にも泣きだしそうに目を潤ませながら。
「あの頃の私に、聞かせてあげたかった」
 赤子の泣きじゃくる声が近づいてくる。
 半分はりんの匂い。──もう半分は、誰とも知れぬ男の匂い。
 かごめが申し訳なさそうに、りんの側に寄る。
「ごめんね、りんちゃん。お乳がほしいみたいで、どうしても泣き止まなくて……」
 りんはわが子を腕に抱く。
 むずがる赤子をあやすその顔は、すっかり母の表情だ。
 夢に別れを告げ、現実を見つめ直すかのように。
 彼女は殺生丸を振り返ることなく、人里へと帰っていく。
「ねえ、お義兄さん」
 義妹はやるせなさそうに、その後ろ姿を見送っている。
「一度来た道を引き返して、最初からやり直せるほど、私たち人間は長生きできない。──りんちゃんは、きっとそう思っているから、ああやってあなたに背を向けるんだと思うの」
 では、りんはもう腰を据える覚悟を決めたのだろうか。
 妖と共に生きるより、馴染んだ人里で暮らすことを選ぶというのだろうか。
 否、例えそうであったとしても──。
「赤ちゃんのお父さんはね。もう、この世にいないの」
「……興味はない」
「少しは気になってるくせに。──意地張っちゃって」
 義妹は苦笑する。
「でも、見直したわ。お義兄さん、りんちゃんがああなったことを知っていて、それでも、りんちゃんのことを連れて行きたいのよね?」
「知れたことを──」
 連れて行く。
 今度こそ、片時も離さずに。
 誰の手に委ねることもしない。
 誰あろう、己の側に置いておく。
 僅かばかりでもあの娘の心が傾いているというのなら、──尚更。


 巫女様が教えてくださった御伽話に憧れた。
 百年の時が経っても美しい姿のまま、深い森の奥で眠り続ける姫君。
 他の人と生きていくことを決めた後も、いつも心の奥深いところにはあの人がいた。
 生涯忘れられない、憧れの人だった。
「りん」
 目の前には、思い焦がれてやまないあの人がいる。
 秋風にすずしげになびく、銀の髪。
 どれほどの時が過ぎても、彼は何一つ変わらない。
 刻一刻と、私だけが変わっていく。
「私と共に、来るか、と言ったな。──取り消そう」
 はい、と、震える声でりんは答える。
 わかっていたことだった。
 連れて行ってもらうには、もう、あまりにも遅過ぎる。
「りん」
 今にも泣き出しそうなりんの目を、彼は真っ直ぐに見つめている。
 面と向かって告げられるだろう別れに、懸命に涙を堪えていると──

「私と共に、来い」

 一瞬、何を言われたのか、理解できなかった。
 途方に暮れるりんに、彼は手を差し伸べてくる。
 赤子を両腕で抱きかかえるりんには、どうすることもできない。
 その手を取ることも。拒むことも。
「来るか、ではなく、来い、と言った。──りん、私はお前を連れて行く」
 距離が近づいた、かと思うと、あっという間に、軽々と抱き上げられる。
 子どもの頃と変わらない、優しい胸の温もり。
 間近に見るその美しい顔が、懐かしくて、慕わしくて、まるで永遠の恋に落ちたかのように胸を締め付けられる。
「連れて行くって……本当に?」
 堪えきれなくなった涙が、りんの頬を伝い落ちていった。
「後悔はさせぬ」
「でも、私には、この子がいて──」
「構わん」
「私はこの子だけ、人里に置いていくことなんて──」
「案ずるな」
 金の瞳が、りんの胸に眠る赤子を見下ろす。
 その静かな眼差しは何ら変わりない。
 どれほどの時を経て、りんが、どれほど変わってしまおうとも。
「二人とも、この殺生丸が連れて行く」




2016.09.14






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