第7章


 どこかで、誰かが呼ぶ声がした。
 深い闇の中でもがき苦しみ、我を忘れてのたうち回る龍の名を、懸命に呼ぶ少女の声。その声だけが、底なしの闇の深淵にまでとどいていた。
 ──死のまじないを打ち砕くのは、真実の愛のみ。
 愛するひとの声を、その温もりを、その輝きを。
 闇にとらわれた龍は、必死に追い求めた。
 
 煤と火のにおいが辺りに満ちている。
 うっすらと開けた視界に、ボイラー室の木組みの天井がひろがっていた。壊れた換気扇のあったところには、ぽっかりと空洞があいている。
 あの空洞が、あの「穴」に通じているのだ。
 豪奢な絨毯の下に隠された、ごみ捨て穴。いつか魔女に用済みと見なされれば、ごみ同然に「穴」の中に放り投げられ、あの「闇の住人」に加えられることになるのだろうと、覚悟はしていた。
 あの闇の中から無事生還できたことは、奇跡に等しかった。
 枕元で寝息が聞こえる。布団からそっと半身を起こして振り返れば、釜爺が作業台に背中をあずけて眠っていた。
 最も顔を見たいと願ったひとは、今、ここにはいないようだ。
「おじいさん」
 まどろみから揺り起こされた釜焚き男は、ハクが無事に起き上がっているのを確認して、安堵の表情を浮かべた。
「おじいさん、千はどこです?」
 逸る心をおさえきれずにたずねれば、何も憶えていないのか、と聞き返される。
「きれぎれにしか思い出せません。闇の中で千尋が何度も私を呼びました。その声を頼りにもがいて……気が付いたらここに寝ていました」
 黒メガネの奥で、釜爺の目が細められた。
「そうか、千尋か。あの子は千尋というのか」
 頷きながら、噛み締めるように、蜘蛛の老人はつぶやいた。
「いいなあ、愛の力だな……」
 ハクの瞳が揺らめく。
 「沼の底」の魔女は、確かに言っていた。契約印には死のまじないがかかっており、盗んだものは闇の中で死ぬのだと。彼のことを、心から愛してくれる誰かが呼び戻してくれないかぎり、まじないが解けることはないのだと。
 死にぞこないの龍の名を呼び、命を吹き込んでくれたのは、あの人間の少女だ。
 千尋の愛が、魔女の呪いを打ち砕いたのだ。
「それで、千尋は今どこに……?」
「電車の切符を渡した。ちょうど『沼の底』に着く頃だろう」
 ハクははっと目を見開く。
「千尋が、銭婆のところへ?」
「判子を返して、謝って、お前さんのことを助けてもらうつもりらしい」
 千尋に自分の犯した罪の清算をしてもらうことになるなんて。そんなことは思いもよらなかった。
 うつむくハクの肩に、釜爺の手が触れる。
「迎えに行けばいい」
 顔を上げれば、たくわえられた口髭の奥で相手が笑ったような気がした。思えばこれまで、ハクがどんなに愚かなことをしでかしても、この老人だけはいつも彼を気遣ってくれたのだった。変わらぬ情の篤さに、強張っていたハクの心がしだいに解れていく。
「ガールフレンドに後始末を任せっきりじゃなあ。お前さん、せっかくのいい男が台無しだぞ」
「……面目もありません」
「いいから早く迎えに行ってやれ。こんなジジイと話してる間も惜しいだろうに」
 ハクが眠っていた間の出来事を、釜爺はかいつまんで教えてくれた。千尋がニガダンゴでハクを救ったこと。千尋を慕うカオナシという化け物が油屋で大暴れしたこと。それを千尋のせいだと、湯婆婆がなじっていること。
 ハクの表情がみるみるうちに険しくなってくる。湯婆婆が千尋に腹を立てているということは、豚舎にいる千尋の両親に危険が及ぶかもしれない。千尋を迎えに行く前に、どうにかして両親の安全を確保しなければ。
「そういえば、千は妙なネズミとハエを連れていたな」
 釜爺の何気ないつぶやきに、ハクは気を留めた。
「ネズミとハエ?」
「ああ。千にぴったりくっついて行ったんだがな、見たことのない連中だった」
 千尋はそのネズミとハエを、ハク共々湯婆婆の部屋から連れてきたのだという。
 だが、ハクの知る限り、師匠の居室にそんな動物は存在しない。綺麗好きの魔女がネズミやハエを住まいにのさばらせておくはずがない。あの部屋に暮らす住人は、湯婆婆のほかには、彼女の息子の坊と、三匹の頭と、目付役の人頭鳥だけだ。
 おぼろげながら、ハクは「穴」に落ちる寸前、動いて喋る式神の人形を、龍の尾で打ち破ったことを憶えていた。
 魔女の姉が妹の居室にいたのだとしたら。ひょっとすると、千尋が連れていたというネズミとハエは、魔法をかけられたあの部屋の住人たちなのではないか。
 だとすると、千尋の両親の無事を確約する目途が立つ。
 うまくいけば、千尋をもとの世界に帰すこともできるかもしれない。
「おじいさん、介抱してくださってありがとうございます」
「おお、具合はもう良くなったか?」
「はい。おじいさんのおかげです」
 深く頭を下げれば、水臭いなと咎められた。
「もう行くんだろう?」
「はい。千尋を迎えに行ってきます」
 ハクは背筋を正して微笑んだ。面と向かって、あの子に「ありがとう」と言いたいのだと告げる。釜爺はうんうんと頷きながら、
「千もお前に会いたがっているだろう。お前が死ぬんじゃないかと、随分心配していたからな。早く迎えに行ってやるといい」
 元気に空を飛ぶ姿を見せれば、千尋は安心するだろうか。
 はじけるような笑顔を見せてくれるだろうか。
 一刻も早く、飛んでいきたい。
「ハク」
 戸口で膝をついたまま振り返る少年に、老人はにかっと笑って親指を突き立ててみせた。
「グッドラック」




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