花嫁 - 26 - | ナノ

花嫁 - 26 -




 もう迷わない。
 この眼に曇りはない。
 久方ぶりの森に深く深く分け入りながら、サンはいっそう決意を固くする。
「シシ神様と、二人で話をしてくる」
 そう言って山犬の背から降りたサンを、アシタカは腕を広げてそっと抱き寄せたのだった。
「では、私はここで待っているよ」
「村に戻らなくていいのか?」
「サンを待っていたいんだ。──だから、ここにいるよ」
 本当はついてきたかったのかもしれない。もう二度と、シシ神と二人きりにさせたくはないと、道中、彼がつぶやいたのを、サンは耳にしている。
 それでもサンは、アシタカを待たせた。シシ神とは二人きりで話をしなくてはいけないと思った。一対一で向き合い、混じり気のない本心を打ち明けたなら、必ずやシシ神は理解を示してくれるだろう。
 そして今度こそ、彼女は迷いなくアシタカの胸に飛び込んでいくのだ。
 ──あの若者の、唯一無二の花嫁として。

 シシ神の聖地は、相も変わらず清浄な空気に満ちている。
 苔むした大岩にとまる一羽の鳥が、赤い瞳でじっと、木々の間から現れたサンを見ていた。
「シシ神様」
 サンの静かな呼びかけに、身じろぎもせずにいた鳥は、ほろりと涙をこぼした。
 赤い瞳から、次から次へと水晶のような涙があふれだす。
「……何故、泣いているのですか?」
「もののけの姫よ。そなたはなんと美しい眼で、私を見るのだろう──」
 シシ神を慰めるように、色彩鮮やかな蝶達がその周囲をとりまいていた。
「そなたはあの若者を選ぶのだね。その心に、曇りはないのだね」
「ありません。この眼にも、心にも」
「では、私にはどうすることもできぬ。……ゆくがいい。愛する男のもとへ」
 サンはシシ神に背を向ける。拳を握り締め、訊かねばならないことを訊いた。
「──シシ神様。あなたは、この森を去ってしまうのですか?」
 答えはなかった。
 サンは今一度、後ろを振り返った。
 鳥はサンを見ていた。しかし、もう彼女に向けて言葉を発することはなかった。以前のように、まばゆいばかりの輝きを放つこともない。美しい人形をとることもない。
 蝶達が飛び去っていく。
 シシ神はサンを責めることはしない。
 神であろうと、心に傷を負うこともあるのだろう。
 なおもシシ神は、サンを見守っている。
 戻らずともよい──静かな眼差しがそう告げている。
 シシ神の大いなる愛を目の当たりにして、泣きたいような気持ちで、サンは聖域をあとにした。

 早くアシタカに会いたい。
 アシタカ。──アシタカ。
 あの力強い腕で抱き締めてほしい。
 私を「花嫁」と、呼んでほしい。 

「──サン」
 約束通り、アシタカは森の入り口で待っていてくれた。
 だが、一人ではない。
 縄で体を縛られ、身動きの取れぬ状態で、武器を手にした兵士達に囲まれている。
 山犬の兄は、地面にぐったりと伏せている。
「……一体、何がどうなっている?」
 茫然と立ち竦むサンに、厳つい顔をした兵の一人が近付いてくる。腕をとられそうになり、サンは伸びてきた手を邪険に払いのけた。
「触るなっ!」
「サン、すぐに森へ引き返せ!」
 必死に叫んでいるのは、アシタカだった。
「この者達は、そなたを連れ戻すつもりだ!」
「連れ戻すって、どこへ!?」
「もちろん、屋敷へお連れするのですよ」
 サンは敏捷に飛びすさり、背後に立つ木の枝に着地した。小刀を顔の前で横ざまに構え、眼をぎらぎらさせながら声の主を見おろす。 
「──三の姫。さあ、私と共に参りましょう」
 若者がにっこりと笑いながら手を差し伸べる。
 それはサンを人間の屋敷へ連れ去った、あの、景朗という若者だった。




【続】

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