第6章


 湯婆婆の双子の姉である魔女・銭婆の住処は、「沼の底」とよばれる場所にある。
 海原電鉄に乗っていけば、「沼の底」は油屋から六つ目の駅にあたる。この世界において、油屋とは反対側にあるその地へたどり着くには、龍となったハクが空を飛んだとしても、相応の時間がかかってしまう。
 朝方に油屋を出発したハクは、雲の合間を縫うように飛びながら、しだいに雨雲が近づきつつあることを感じ取っていた。すでに太陽は中天にさしかかり、昼時の空はいっそう青く澄み渡っている。今はまだきれいに晴れているが、この先少しずつ雲行きが怪しくなり、ちょうど油屋が店を開ける頃には降り出してくることだろう。
 眼下には、遠く伸びる線路を走っていく海原電鉄が見えた。その一方通行の電車を、かつてハクは、まるで自分のようだと思っていたものだ。本当の名を忘れ、帰りの線路を見失った彼にはおあつらえ向きだった。一度魔女の口車に乗ってしまえば、もう二度と後戻りはできないのである。どこへたどり着くとも知らず、先へ先へと進み続けるあの電車は、彼そのものだった。
 ハクは油屋へ残してきた少女を思う。
 今の彼はもう、行きっぱなしの電車ではなかった。
 ──必ず戻りたい場所がある。
 あの少女は、ハクにとっての終着駅だった。
 なぜ自分が千尋をそれほど大事に思うのか、わからないことがハクにはもどかしかった。思い出せない記憶の中で、彼はどのように千尋と出会い、その名を知るに至ったのだろう。──千尋の名を忘れずにいたのは、なぜなのだろう。
 いくつかの町や村の上空を通り越していく。この世界にどれほどの住人が暮らしているのか、ハクには想像も及ばない。油屋で働く従業員の中には、油屋での奉公を終えたあかつきには、別の町に移住してみたいと望むものが少なからずいると聞く。油屋という箱庭にとらわれているがゆえに、外に夢を見るのだ。
 ハクのように空を飛ぶことのない彼らは、この世界がどこまで続いているかを知らない。
 そしてこの世界の闇が、どれほど深く果てしないものであるかも、永遠に知ることはないだろう。
 鈍色をした重たげな雨雲が徐々に近づいてくる。ハクは視界の先に、自分と同じように空を飛んでいる何かがいることに気づいた。雨雲を従えてやってくるかのような、その巨大な人面鳥は、まぎれもなく湯婆婆その人であった。
 すれ違いざま、魔女は彼に向けて不敵に目を細める。
 ──しくじったりしたら、お前を「穴」に放り落としてやるからね。
 魔女に付き従う鳥が、嘲笑うかのようにけたたましい鳴き声をあげるのが、雨音に混じってハクの耳にきこえてきた。

 「沼の底」という名の通り、その駅は闇深き沼地とまばらな葦原に取り囲まれていた。
 鬱蒼と茂る木々の中に、魔女・銭婆の家はあった。白壁に慎ましい草葺きの屋根。妹の暮らす贅のかぎりを尽くした御殿とは、雲泥の差だ。湯婆婆がしきりに双子の姉とはそりが合わないと言う理由を、ハクはまざまざと思い知った。
 入口もまた、木の枝を組み合わせて作っただけの簡素な門構えだった。龍から人の姿になったハクは、門にぶら下がるカンテラをじっと見上げる。視線を感じたような気がしたのだ。すると突然カンテラがひとりでに動き出し、一本足で地面に降り立った。客人を迎え入れるかのように、ハクに向かって頭を下げてくる。これから盗みを働く身でありながら、礼儀を尽くすというのもおかしな話だが、ハクもまたカンテラにならってお辞儀をした。
 門をくぐり、敷地内へ入る。銭婆の家の窓から明かりがこぼれていた。火を焚いているらしく、煙突からは白い煙が立ち昇っている。
 ハクが分厚い木の扉を叩こうとすると、それは音を立ててひとりでに開いた。家主は彼の来訪などとうに見通していたようだ。彼が中に足を踏み入れると、背後で扉がゆっくりと閉まった。
「お前のことは知っているよ」
 声の主は、赤々と燃え上がる暖炉のそばにいた。木の椅子に腰かけ、糸車を動かして糸を紡いでいる。双子と言うだけあり、その姿は妹とまるで見分けがつかない。
「妹が飼い馴らしている龍だろう?」
 ハクは何も答えない。
 先程から、腹がじくじくと疼いている。
 一刻も早く命令を遂行しなければ、まじないに腹を食い破られる──。
 銭婆は、苦痛にゆがむハクの顔をちらりとも見ずに告げた。
「お前が何をしにここへやってきたのかも、あたしは知っているよ」
「では、話は早い」
 どうにか穏便に事を済ませたかった。望みは薄いと知りながら、なおもハクは、頭を下げた。
「銭婆様。あなたは争いを好まぬ方とお見受けします。私にとっても、あなたと争うことは決して本意ではありません」
「本意ではない、ねえ。それで、お前はあたしにどうしろっていうんだい?」
「──『例のもの』を、お譲りいただきたいのです」
 銭婆は大声で笑い飛ばした。
 ハクの目に諦めの色が浮かぶ。
 双子の姉妹は、笑い声まで恐ろしいほどよく似ていた。
「随分と行儀のいい盗人が来たもんだねえ。まあでも、賢そうに見えて、頭の方はあまりよくないようだ」
 銭婆はまだ糸車を動かす手を止めない。ハクのことなど、たかが妹の手下に過ぎぬと甘く見ているのだろう。
 今やハクは、腹を巣食うまじないのもたらす苦痛のあまり、立っているのがやっとの状態だった。
「大事な判子を、あの強欲な妹にみすみす渡すはずがないだろう?よく考えてごらん。そんなことをしたら、あの湯屋はおしまいだよ」
 気丈に痛みを堪えながら、ハクはすばやく家の中を見渡した。もはや銭婆の声は彼の耳に届いていなかった。腹の中でまじないが暴れている。生きながら命を食い荒らされる苦しみに、今にも正気を失ってしまいそうだ。何としても、魔女の契約印を見つけ出さなければならない。
 ──必ずあの子のもとへ帰ると、心に誓ったのだから。
 ハクは目を閉じ、神経を研ぎ澄ませて契約印のありかを探った。ほどなくして、いまだかつて感じたことのないほど強い魔法の気配がどこからか感じられた。その方向へハクが目を向けると、ようやく銭婆は糸を紡ぐ手をとめた。椅子からすばやく立ち上がり、今度こそ真っ直ぐにハクを見据える。
「気づいたのかい。頭の悪い龍だと思ったが、どうやら違ったようだね」
 銭婆の目が細められる。
「お前、タタリ虫に腹の中を巣食われているね?」
「……タタリ、虫?」
「妹に仕込まれたんだね。──本当は、立っているのがやっとなんだろう?」
 その通りだった。いてもたってもいられず、ハクは契約印が隠されているであろう戸棚に向かって駆け出した。銭婆は手元ですばやく何かを結わえる仕草をすると、ハクに向かって両手を突き出した。今しがた銭婆が糸車で紡いでいた、五色の糸だった。長い糸は蛇のようにハクにからみつき、その身体を締め上げた。
「あ……ぐっ」
 苦しみのあまりハクは片膝をつく。ただの糸ではない。糸の触れている部分が焼け付くようだ。
「手負いの龍を懲らしめるなんて、あたしも本意じゃないさ。でもね、その判子だけは、どうしてもあの妹に渡すわけにはいかないんだ」
 銭婆は厳しい面持ちでハクを見やる。
「お前の本性は龍。龍の弱点を、あたしが知らないとでも思ったのかい?」
 龍であることを知られていた時点で、ハクに勝ち目はなかったのだ。──五色の糸は、龍が最も嫌うもののひとつだった。
「これ以上抵抗するなら、あたしももう容赦しないよ。お前が死ぬことになろうと、力づくでお前を食い止めるからね」
 五色の糸に縛【いまし】められたまま、ハクはまじないを囁いた。彼の手から水の泡のようなものが生まれ、またたくまに大きくなって銭婆を包みこんだ。銭婆の注意がそれたほんの一瞬を見計らって、ハクはすばやく縛めから逃れ、戸棚の引き出しに手を伸ばした。
「おやめ、ハク龍!」
 泡のまじないを打ち消した銭婆がとめるのもきかず、ハクは魔女の契約印を奪い取った。
 強力な魔法の力に怯みそうになった時には、すでに遅かった。
 手が触れた瞬間──判子からはなにやらどす黒いものが噴き出し、一瞬にしてハクの体内へ染み込んだ。

「その判子には守りのまじないがかかっているんだ」
 銭婆の声が遠く聞こえる。
「盗んだものを死に至らしめるまじないだよ。お前を心から愛してくれるものが、お前を闇の中から呼び戻さないかぎり──そのまじないが解けることはない」

 ハクは自分がいつ龍にもどっていたのかさえ、わからなかった。
 想像を絶する痛みにもがきのたうち回り、破壊の限りを尽くし、耐えがたい苦しみに耐えかねて、扉を突き破って銭婆の家を飛び出した。
 空に逃れようとするハクに向けて、銭婆は無数の式神を飛ばしてきた。
 死のまじないによって正気を失う前に──ハクは契約印を一思いに飲み込んだ。
 身体の中から徐々に命を食い荒らされていた。式神達の攻撃も凄まじいものだった。いっそ一思いに心臓をひねり潰してくれとさえ思った。それが叶わぬならこの鉤爪で喉笛を掻き切ってしまおうか──息も絶え絶えに覚悟を決めかけた時、彼の脳裏にふと浮かび上がる顔があった。
 ──別れ際の、千尋の笑顔だった。
 途方もない闇の中で、千尋だけが輝いて見えた。
 その、一点の光に縋るように、傷ついた身体で龍はどうにか闇夜を飛び続ける。

 私の名を呼んでほしい。
 闇の中から呼び戻してほしい。
 千尋なら、きっと知っている。
 私の名を。──私の本当の姿を。




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