第5章


 下働きの娘たちの寝起きする部屋では、布団が所狭しと並べられていた。仕事で疲れ果てた湯女たちは、ぐっすりと眠っている。
ハクは部屋の奥にむかって、布団を静かに踏みしめていく。
 千尋は端の方に寝ていた。どうやらもう目を覚ましていたらしく、ハクが部屋に入ってきたことにも気がついているようだった。彼のことを警戒しているのか、布団の中でじっと身を固めて微動だにしない。
 声を出せば周りの誰かが起きてしまうかもしれない。ハクは千尋のひきかぶる布団越しに手を触れて、彼女に直接話しかけた。
「──橋のところへおいで。お父さんとお母さんに会わせてあげる」
 ほどなくして、千尋が橋を渡ってやってきた。昨夜履いていた黄色い靴を履いている。釜爺のところに置いてあったようだ。安堵を覚えながら、ハクは千尋を両親のいる豚舎へと導いた。
 躑躅、夾竹桃、椿、石楠花、凌霄花。むせかえるような花の小道を通りぬければ、赤い屋根の豚舎が連なっているのが下の方に見えてくる。今は終業後なので、庭師や豚の世話役が顔を出すこともない。
 豚舎に入ると、入り口のすぐそばに千尋の両親はいた。千尋は一目でその二匹の正体を見抜いた。確かめるようにハクを見たあと、必死の面持ちで柵に駆け寄っていった。
「お父さんお母さん、わたしよ!──せ、千よ!」
 ハクは両親を呼ぶ千尋の後ろ姿を見つめる。やはり、本当の名を忘れかけているようだ。
 千尋の両親が娘の呼びかけに応じることはない。不安に駆られた千尋が、縋るような目でハクを見た。
「病気かな。怪我してる?」
「いや、おなかがいっぱいで寝ているんだよ。人間だったことは、今は忘れている」
 食堂街で両親が店主に折檻されていたことは、伏せておくことにした。これ以上、千尋が心を痛める姿を見ていられない。
「お父さんお母さん、きっと助けてあげるから、あんまり太っちゃだめだよ!食べられちゃうからね!」
 千尋は泣きながら豚舎から駆け出していった。ハクは両親の傷が癒えていることを確かめてから、千尋のあとを追った。
 豚舎の側は野菜畑になっている。さやえんどうの垣根の下でうずくまっている千尋を、ハクはいたたまれない思いで見下ろした。千尋のように年端のゆかない人間の子どもが、どうしてこのようなつらい目に遭わなければならないのか。千尋にはなんの罪もないというのに。
 ハクは昨日見た夢のことを思い出していた。どのような夢かは定かではないが、幼い子どもの声を聞いたことを憶えている。──そしてその子どもを、ハク自身が「呼んだ」ことも。
 千尋が現れたのは、その夢を見た直後のことだった。偶然にしては、うまくできすぎているのではないだろうか。
 物思いにふけっている時間は、それほど残されていなかった。ハクは水干の合わせ目から、千尋の服をとりだす。
「これは隠しておきな」
 千尋は自分の服を抱き締めた。今の千尋にとっては、もとの世界から持ってきた些細なものさえも、掛け替えのないよすがとなるだろう。
「捨てられたかと思ってた」
「帰るときにいるだろう?」
 服の中から、千尋はあのカードを探し当てた。
「ちひろ?千尋って──わたしの名だわ」
 たった今思い出したという顔をする千尋に、ハクは力強く頷き返す。
 彼が千尋の側にいられるのなら、たとえ千尋が本当の名を忘れかけたとしても、何度でも思い出させてやれるだろう。けれどこれからは、そうして千尋を手助けしてやれるかどうかわからない。銭婆のもとで、彼は命を落とすことになるかもしれないのだ。
「湯婆婆は相手の名を奪って支配するんだ。いつもは千でいて、本当の名前はしっかり隠しておくんだよ」
 千尋自身が憶えていなくてはならない。本当の自分が、何者であるかを。
 ハクは忘れてしまった。名を思い出せなくなり、自分を見失い、ハクという仮初の名に支配されてしまった。
 彼の二の舞を、千尋には決してさせたくはない。
「わたし、もう取られかけてた。千になりかけてたもん」
 千尋のひたむきな瞳は、やはりハクをどこか懐かしい気分にさせた。暗がりにとらわれ、今は淀んだ目をしている彼も、かつてはこんなふうに澄んだ眼差しで誰かを見ていたのだろうか。
 この世界の闇を知らない千尋は、ハクにとってはまぶしい存在だった。
 ハクは千尋のことをひどく好ましく思うと同時に、その、水のような清らかさを羨ましく思うのだった。
「名を奪われると、帰り道がわからなくなるんだよ。──私はどうしても思い出せないんだ」
「ハクの本当の名前?」
「でも不思議だね。千尋のことは憶えていた」
 ひょっとすると、千尋は自分にとっての拠り所なのかもしれない──。
 漠然とそんなことを思いながら、ハクは千尋に塩むすびを差し出した。
「お食べ。ご飯を食べてなかったろう?」
「……食べたくない」
「千尋の元気が出るようにまじないをかけて作ったんだ。お食べ」
 千尋は気乗りがしなさそうにおにぎりを受け取って、ひとかじりする。
 またひとくち、そしてもうひとくち。
 その目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。口いっぱいにおにぎりを頬張り、こらえきれずに大声で泣きじゃくる。
 ハクはその肩に手を添えて、優しく言葉をかけた。
「つらかったろう。──さ、お食べ」
 おにぎりにかけた、元気が出るまじない。言い換えるならばそれは、涙が出るまじないだった。
 この世界では、「嫌だ」とか「帰りたい」などと弱音を口にした者は、たちどころに動物や石炭にその姿を変えられてしまう。言葉はまじないであり、安易に使うことのできない恐ろしいものだ。だから心にわだかまるつらい気持ちを外に出すには、ひとおもいに涙で流し尽くしてしまうのが、きっと一番いい。
 ハクの隣でひとしきり泣いたあと、千尋は、見違えるように晴れ晴れしい顔で立ち上がった。
「いっぱい食べて、いっぱい泣いたら元気が出たみたい。ハクのおまじないって、すごいね」
 魔法は使わなかった。それでも、千尋は元気になった。
 陽だまりのような笑顔が凍てついたハクの心を温める。
 これから命がけの任務を果たさなければならないことなど、きれいに忘れさせてくれるかのようなひとときだった。
 花の垣根に囲まれた抜け道を、先にいくのは千尋。ハクはその後ろ姿を追いかける。花の影が、千尋の肩口で揺れていた。
千尋にとって、今日という日が穏やかな一日であってほしい。祈るように、ハクは思う。
「ひとりでもどれるね?」
「うん」
 万が一の場合を想定して、かけた言葉のつもりだった。もし彼が出先からもどれなくなるような事態に陥ったとしたら、千尋をもとの世界に帰す手助けをしてやれなくなる。その場合には、千尋が自分で機会を見つけて動くしかない。遺言といっては不吉だが、別れの言葉になるかもしれないと思って口にした言葉だった。
 けれど、今一度千尋と顔をあわせた時、ハクはそれが彼の本意ではないことに気づいた。
 別れの言葉になどしない。
 絶対に、千尋のもとへ帰ってくる。
「ハク、ありがとう。わたし、頑張るね」
「うん」
 千尋は足取りも軽く橋を渡っていく。
 私も頑張るよ、と、ハクは心の中で囁き返す。
 その後ろ姿が名残惜しくなる前に、彼は白い龍の姿へと転じて、海を映したような青空をめざした。



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