第4章


 夜も更け、帳場がようやく落ち着いてきた頃、つかの間の休憩をとりにハクは自室へ上がった。
 千尋の両親が着ていた服を洗濯し、きれいに汚れを落として、干しておく。窓を開けて風通しを良くすれば、終業までには乾くだろう。
 さいわい湯婆婆は、ハクがいち早く食堂街から豚舎に送って保護した二人の人間については、まだ何も沙汰をくだしていない。今、魔女の頭の中を占めているものは、もっと別の用向きなのだ。それがどのような用事か、ハクはしかと心得ている。なぜなら彼こそが、それを遂行するよう命じられた張本人なのだから。
 その任務がどれほど危険で、どれほど無謀であるかについては、あまり考えないようにしている。案じたところで、契約で縛られている身では、決してそれを避けられはしないのだから。いざという時にはたやすく見放されるであろう捨て駒として、いいように利用されるほかない。
 ふと、千尋の服はどうなっただろうか、と思った。
 宿場に上がったのなら、おそらく下働きの娘たちが着ている着物や袴をあてがわれたはずだ。大半の従業員たちが不快と感じる「人間の匂い」の染みついた服は、不用品と見なされるに違いない。
 トンネルのむこうに帰る時、もともと着ていた服がなくては不便になる。処分されてしまってからでは遅い。どうしたものかと考えあぐねながら下へ降りていくと、ちょうと宿場から仕事場へもどるところらしいリンと鉢合わせた。
「なんだよ、ハク様か」
 リンが苦虫を噛み潰したような顔でとっさに何かを隠したのを、ハクは見逃さなかった。
「リン。後ろに何を隠している?」
「……いいだろ、別に何だって」
「出しなさい」
 反抗的な娘ではあるが、上役直々の命令にはさすがに逆らえない。しぶしぶといった顔で、帳場役の意に従った。
 風呂敷に包まれてあるが、ハクにはそれが何か見当はついていた。確認のため、それは何かとたずねてみる。
「新入りの私物だよ」
 リンはすっかりふてくされている。
「これをどうするつもりだ?」
「別に、どうもしないさ」
「嘘をつくな。そなた、どこかへ隠し立てしようとしていたのだろう?」
「人聞きの悪いこというなよ!あたいはただ、釜爺のところに持っていこうとしただけで──」
 売り言葉に買い言葉で声を荒げるリンだが、まずいことを口走ったとばかりに黙り込んだ。
 千尋の服を釜爺にあずけるという判断は確かに賢明だっただろう。だが、やはり万が一の場合にそなえて、千尋本人が持っていた方がよさそうだ。
 ハクは内心ではリンの気配りに感謝しながらも、うわべでは冷ややかな上役を演じた。
「そのような不用品をわざわざ釜爺に渡す必要はない」
「不用品!?ゴミ扱いかよっ」
「釜爺は釜焚きで忙しい。人間の匂いが他の従業員の鼻につかぬよう、私が処分しておこう」
 有無を言わさず踵を返すと、背中に向かってリンが憎たらしそうに舌を出しているのがわかった。
 随分と嫌われたものだとハクは苦笑しながら、千尋の服を置きに今一度自室へもどった。

 終業後、最上階から呼び出しがかかった。
 一面ガラス張りの窓のむこうには、しらじらとした夜明け前の空が広がっている。頭【かしら】たちに取り巻かれて、湯婆婆は出かける支度をしていた。ハクが現れて会釈すると、駒は揃ったと言わんばかりに、その顔に不敵な笑みを浮かべる。企みの遂行を目前にして、いつになく上機嫌になっていることがわかる。
「いよいよ今日だよ。ハク、お前がすべきことはわかっているね?」
「はい、湯婆婆様」
 腹がじくじくと疼く。それがハク自身の意に添わぬことだとしても、彼の体内を虫食むまじないが、魔女の命令を拒むことを許さない。
「あの性悪女はお前の邪魔をするために、色々としかけてくるだろう。無傷では済まないだろうが、お前は死に物狂いであいつの契約印を奪ってくるんだよ」
 魔女の契約印。湯婆婆の双子の姉、銭婆が所有する判子だ。
 その昔、湯婆婆はその契約印にかけて、働きたいものには仕事を与えるという誓いをたてたという。
 油屋の従業員たちはその誓いによって、労働者としての庇護を受けている。
 契約印が湯婆婆の手に渡れば、おそらく彼女のたてた誓いを無効とすることができるのだろう。その余波はこの町にどのような影響を及ぼすのか。契約に縛られる油屋の従業員たちは、いったいどうなるのか。労働者としての地位をなくし、奴隷のようにこき使われることになるのだろうか──。
 湯婆婆が盗んだ判子をどのように使うつもりなのか、ハクにはわからない。だが、強欲な魔女がその契約印で善行を施すだろうとは到底思えない。だからこそ企みを聞いた当初は、断固として反対したのだ。
 無論、師匠は決して弟子の言葉に耳を傾けようとはしなかった。
「生意気に口答えするつもりかい。お前、魔法使いになりたいんじゃなかったのかい?」
 逆らえば魔法を教えてはもらえなくなる。操り人形が意見することなど、許されるはずがなかった。
 湯婆婆の巨眼がじろりとハクを見据える。
「しくじったりしたら、ただじゃおかないよ。死にかけようが、どうなろうが、必ず契約印をあたしのところに持ってくるんだ。いいね?」
 はい、とハクは従順に頭を下げた。
 湯婆婆の言葉は死刑宣告も同然だった。彼女の言う通り、無事では帰って来られないだろう。だからこそハクという使い捨ての駒を利用するのだ。結局のところ、誰よりも銭婆の力を恐れているのは、湯婆婆なのだから。

 部屋にもどって千尋の服を畳んでいると、一枚のカードが出てきた。
 ──ちひろ 元気でね また会おうね 理砂
 千尋はすでに本当の名を忘れかけているだろう。契約の力がどれほど強大であるかは、ハク自身も身をもって知るところだ。目を覚ますごとに、過去の記憶が曖昧になっていく恐ろしさ。自分が自分ではなくなっていく悲しみ。千尋にだけは、そのような思いを味わわせたくはない。
 御櫃の白米がまだ冷めないうちに塩をふりかけ、握り飯にする。千尋のためのまじないは、湯婆婆から教わった魔法ではなく、彼の真心を込めたものにした。この世界においては、言葉はそれ自体が力をもつ。
「千尋の元気が出ますように」
 心から唱えた言葉は、この塩むすびのように素朴なものであっても、きっとなによりのまじないになる。汚れ仕事で学んだ魔法で千尋を元気づけることなど、したくはなかった。
 ガラス窓の外では朝霧がしだいに晴れていく。朝と夜の逆転したこの町では、日没ではなく日の出が住人にとっては眠りにつく合図だ。
 千尋は昨夜、よく眠れただろうか。顔色が優れなかったが、具合はよくなっただろうか。
 自分の命が死の瀬戸際にあるというのに、不思議と気にかかるのは千尋のことばかりだった。千尋のことを思うと、とても懐かしい気分に見舞われる。心が洗い清められ、見失ってしまった本当の自分に、少しばかり近づけるような気がする。
 塩むすびを干した笹の葉で包んだ。千尋の服も持たなくてはと思った時、ふとハクの脳裏をかすめるものがあった。
 ──靴。
 千尋の靴は、どうなったのだろう。
 油屋へは土足では入れない。きっとどこかで脱いできたはずだ。ハクが回収しそびれたため、もう処分されてしまったかもしれない。
いや、あるいはボイラー室にあるだろうか。釜爺が気を利かせて保管してくれているかもしれない。
 ハクは今すぐに探したい衝動に駆られた。どうしてか、あの子に靴を届けてやらなければ、と思った。はやる気持ちをおさえ、今、自分のなすべきことを思い出す。千尋を両親に会わせるのだ。靴探しをしている場合ではない。
 なぜそれほど千尋の靴にこだわるのか──。その理由は、今のハクにはわからなかった。



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