第3章


 踏み石で履物を脱いで中に上がった。上役を待ちわびていたらしい蛙男や蛞蝓女たちが、帳場役が戻ったと見るや四方から駆け寄ってくる。
「お前たち、揃いも揃ってなぜこのようなところで油を売っている?すでにお客様がお越しなのだぞ」
 ハクは毅然とした態度で、持ち場に戻るよう命じる。物足りない様子ながらも、帳場役に盾突く勇気のない従業員たちは、言われるがまま、蜘蛛の子を散らすようになった。
「──ハク様。この町に人間が迷い込んだというのは、本当のことでしょうか?」
 ひとり残った父役が、こっそりとたずねてくる。
 噂がこれだけ広まっている以上、もう千尋たち一家の存在を隠すことはできないだろう。帳場に向かって足早に歩きながら、ハクは淡々と告げた。
「人間の親子が三人、迷い込んだようだ」
「三人ですと!?」
 父役は笏で口元をおおい、思いきり顔をしかめた。
「小娘一匹さえ鼻につくというのに、なんと恐ろしい。不潔な匂いで町が穢されてしまいますなあ」
 ハクは無言で帳場に入る。千尋を侮辱する物言いには憤りを覚えるが、表立ってそれをあらわにしてはならない。今の彼はあくまでこの油屋の帳場役であり、従業員たちの上役であり、湯婆婆の忠実な手先である。千尋が無事湯婆婆と契約を結び、この油屋に身の置き所を得るまでは、彼女と特別な繋がりがあることを誰にも勘付かれてはならない。
 父役は帳簿を確認するハクの顔を、ちらりと窺った。
「ところで、親子で迷い込んだなら、小娘の親はどうなったので?」
「両親は食堂街の料理に手をつけ、豚に変えられたそうだ」
「なんと愚かな……。では店主が、二匹とも丸焼きにでもしてしまったのでしょうなあ。いや、酢豚か?角煮か?まあどれでも、結構、結構」
 愉快そうに父役が笑うのを、ハクは冷たく一瞥した。
「湯婆婆様のお手を煩わす前に、私が豚舎へ送った」
「豚舎へ?なにゆえそのように面倒なことをなさったのです?」
「余所者が豚に変えられるのは、誰の思し召しだ?」
 父役の顔から笑みが消える。
「湯婆婆様が処遇をお決めになるのを待つべきであろう。そなたの申したような手前勝手が、許されると思うのか?」
 父役は顔に脂汗をにじませる。ハクの冷めた眼差しに、ようやく気が付いたようだった。
 ちょうど、浴衣姿の黄色い巨体が連なって廊下のむこうからやってくるところだった。常連客のオオトリ様御一行である。帳場の前を通り過ぎざま、父役はこれ幸いとばかりにハクから目を逸らし、客神に向かって深々と頭を下げた。
 追いはらうのにちょうどいい頃合いだ。帳簿に書きとめながら、ハクは父役に命じた。
「今夜は団体客が多い。各所とも手一杯だろう。父役、そなたも早く持ち場に戻るといい」
 はい、と父役は従順に一礼し、そそくさと去っていった。
 彼のような「人ぎらい」はこの油屋においてそう珍しいことではない。ここは八百万の神々を迎える湯屋である。近頃の人間の振る舞いには目に余るものがあると、客が口々に愚痴をこぼすのを従業員たちはいやというほどきかされている。
 千尋が無事に湯婆婆と契約を結び、油屋で働くことになるとしても、人である彼女への風当たりは決して優しいものではないだろう。だからといってハクが逐一目を光らせて、守ってやることはできない。上役に贔屓されていると知られれば、千尋がますますのけ者にされてしまうおそれがあるからだ。
 むしろ油屋の中では、千尋のことをあえて突き放すべきかもしれない。赤の他人のように接し、まったく感心がないようによそおうことが、千尋にとってはためになるのかもしれない。ハクの目の行き届く範囲はたかが知れている。つかの間でも千尋が油屋での生活に馴染めるように、人目のあるところでは、滅多な言動や行動は慎まなければならないだろう。

 帳場で記帳などしていると、不意に呼び鈴が鳴った。湯婆婆からの呼び出しだった。千尋のことに違いない。うまく契約にこぎつけただろうか、と憂いながらも兄役に帳場の代理を言いつけ、ハクは昇降機に乗る。
 最上階の「天」は魔女の居所になっている。ハクが昇降機を下りると、ひとりでに扉が開いた。通路を進むにつれて湯婆婆の声がはっきりときこえてくる。
「──今からお前の名前は千だ。いいかい、千だよ。わかったら返事をするんだ、千!」
 ハクは顔にこそ出さないものの、安堵に胸を撫でおろした。契約は成立したのだ。千尋はさぞ怖い思いを味わったことだろう。だが一度契約を結ばせてしまえば、湯婆婆は手が出せなくなる。
「お呼びですか」
 書斎に顔を出すと、千尋がハクを見た。繋がりを悟られないよう、目を合わせないようにする。
 湯婆婆は何者かが千尋を油屋に導いたことには勘付いているだろうが、それがハクであることはまだつきとめてはいないようだった。
「今日からその子が働くよ。世話をしな」
「はい。──名はなんという?」
 千尋は不思議そうな顔をしたが、千です、と名乗った。
「では千、来なさい」
 連れ立って昇降機に乗る。黙っていた千尋が、意を決した様子で話しかけてくる。
 ハクはにべもなくはねのけた。
「無駄口をきくな。私のことは、ハク様と呼べ」
 馴れ合っているそぶりを他人に見せてはいけない。本意でない態度をとらなければならないことに胸が痛むが、これも千尋を無事に油屋の一員として認めさせるための試練だ。
 冷然と顔を背けながらも、隣で心もとなげにうつむく千尋に、心の中でそっと詫びた。

 千尋を従業員たちのもとへ連れていくと、案の定、皆が難色を示した。
「いくら湯婆婆様の仰りでも、それは……」
「人間は困ります、人間は」
 口を揃えて千尋が加わることを拒絶する父役と兄役。だが、もとより彼らの承諾を得るつもりなどない。ハクは単なる上からの連絡事項として、淡々と告げた。
「既に契約されたのだ」
 なんと、と父役は驚きをあらわにする。魔女と従業員のあいだに結ばれる契約が絶対的な効力をもつことは、彼とて身に染みてわかっているだろう。
 健気にも千尋は、よろしくお願いしますと、頭を下げている。歓迎されていないことを知りながら、律儀な態度をとる千尋はいじらしかった。
「あたしらのとこには寄越さないどくれ」
「人臭くてかなわんわ」
 蛞蝓女たちは千尋の後ろで嫌悪感をあらわにしている。彼女たちのもとへ遣れば、きっと千尋がつらい目に遭うだろう。
 ハクはまだ「人臭い」などと騒いでいる連中に、言いさした。
「ここのものを三日も食べれば匂いは消えよう。それでも使い物にならなければ、焼こうが煮ようが好きにするがいい」
 従業員たちがどよめいた。
 千尋はきっと耐えてくれる。このような異界に迷い込んでも、心細さのあまり泣き寝入りすることなく、果敢に前へ進んでなすべきことをなしとげている。千尋は辛抱強い子だ。健気にここでの仕事をこなして、必ずや従業員たちの信頼を得ることだろう。
 けれど、せめて一人くらいは味方になってくれる同僚が必要だ。
「仕事に戻れ。リンはどこだ!」
 従業員たちが気だるげにそれぞれの持ち場へ戻っていく。腕を組んで戸口に寄りかかっていた下働きの湯女が、とんだ厄介事を押し付けられたとばかりに、声をもらした。
「手下を欲しがっていたな」
 父役と兄役が同調しておもしろおかしく茶化す。
 リンは釜爺が懇意にしている娘だ。毎日ボイラー室へまかないを届けに行っていることを、ハクは知っている。おそらく千尋をボイラー室から湯婆婆のもとへ手引きしたのも、リンだろう。心ない歓迎を受ける千尋に向けられたリンの眼差しが、周囲の悪意ある視線とは明らかに一線を画していることにハクは気づいていた。リンは口は悪いが、年少者の面倒見がよく、気立てのいい娘だ。仕事の手際もいい。彼女になら、安心して千尋を任せられるだろう。
「千、行け」
「はいっ!」
 千尋はリンの後ろについていった。
 その顔色がさえないことに、ハクは気づいていた。この短い時間にあまりにも多くのことと向き合わねばならず、心身ともに疲れ切っているのだろう。せめて今夜だけでもゆっくりと休んでほしい。明日からは仕事漬けの日々が待っているだろうから。
 働かなければ、この世界では生きてはいけないのだ。



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