第2章


「ここへ来てはいけない、すぐ戻れ!」
 考える間もなく、言葉が口を衝いていた。
 えっ、と目を丸める人間の少女。
 二人の遭遇はたそがれ時の呼び水だった。空に浮かんでいた太陽が、赤みを帯びてゆっくりと沈みはじめる。橋の上で大人しくしていた影が、雲のかげりとともにゆらりとうごめきだす──。
「じきに夜になる。その前に、早く戻れ!」
 少女はまだ状況がのみこめずにいるようだった。
 日没は油屋開店の合図。玄関の暖簾奥で、ぼんやりと明かりがともる。従業員の誰かが人の気配に感づくのも時間の問題。これ以上、ここに長居させるわけにはいかない。
 ハクは少女の背を押して、なるべく油屋から遠ざけようとした。
「急いで!私が時間を稼ぐ。河のむこうへ、走れ!」
 指で結び目をつくり、まじないを吹きかける。異界の匂いを消す花の香りだ。これで従業員たちの鼻を当面はごまかせる。
 あの少女が運よく河を渡りきることができればいいが、おそらく人の身では難しいだろう。
 油屋の中に入り、自室に駆け上がりながら、ハクは頭の中で少女の気配を追いかける。
 少女は戸惑いながらも石段を下りていく。だがまっすぐに大通りを戻らず、食堂街の小路にそれてしまった。両親を捜しているのだろう。しかし、運の悪いことに、両親の気配はすでに人のものではなくなっている。神々の食べ物を口にした罰として、家畜へとその姿を変えられたのだ。
 少女が道草を食っている間に、日は完全に沈み、彼女たちが歩いてきただろう草原には渡らずの河が満ちてしまった。
 ハクは机の引き出しから小さな薬箱をとりだす。中には赤い丸薬が数粒入っている。ここに来たばかりの頃、体調をくずした時に釜爺からもらったものだ。薬に詳しい釜爺いわく、それは気つけ薬のようなものだという。千尋には、何かしら口にするものを与えなければならない。
 ──少女の名を知っていることに、彼が驚くことはなかった。
 橋の上で顔をあわせた時から知っていた。いや、それよりもずっと前から知っていたのだ。自分の本当の名すら思い出せないというのに。

 油屋にはまだ千尋たちの存在に感づいた者はいないようだった。
 匂い消しのまじないはなおも効いているが、飲食街での騒ぎはすぐに油屋に筒抜けとなるだろう。他の者に捕まる前に、あの親子を保護しなければならない。
 ハクは足早に橋を渡り、赤提灯の連なる食堂街へおりていく。案の定、千尋が寄り道した店はちょっとした騒動になっていた。食い散らかされた食器がカウンターに転がり、なにらや鞭打つような音と痛ましい豚の鳴き声が切れ切れに漏れきこえてくる。野次馬をかき分けてみると、店の者が蠅たたきを手に二匹の豚をきびしく折檻していた。二匹の豚は巨体に人の服をまとい、食い物の残骸にまみれて苦しそうに喘いでいる。
「やめろ。それ以上の手出しは無用だ!」
 鶴の一声とばかり、店主は手をとめた。血走った眼であたりを見渡すが、野次馬の中から現れたハクの姿をみとめると、恐れをなしたように目を逸らして頭を下げてくる。この食堂街は油屋の経営によって成り立っている。その油屋をとりしきる魔女の弟子に、逆らうような真似はしたくはないだろう。
 それでも、不届き者への仕置きをとめられたことには、納得がいかないようだった。
「ハク様、こやつらは神々に捧げる料理を勝手に食い散らかしたのです。家畜にも劣る汚らしい生き物です。罰を受けるべきではありませんか?」
「この者たちをどうするかは、湯婆婆様が判断なさる。お前の意見など聞いていない」
 冷ややかに一瞥をくれてやると、店主は凍りついた。湯婆婆に命じられるままハクが手を染めてきた悪行の数々は、その噂だけで、この町の住人に十分な恐怖を植え付けたようだった。
 もはや彼の行動に異を唱える者はいない。ハクは二匹の豚にまじないをかけて、眠らせ、油屋の豚舎へと送ってやった。人間の服は彼らが帰る時に必要となるため、湯婆婆に見つからないよう保管しておくことにする。本当はこのまま逃がしてやりたいところだが、もとの姿に戻す方法は湯婆婆だけが知っている。今ハクにできることは、ひとまず、彼らの身の安全を保障してやることだけだ。もとの世界に帰してやるには、機会をうかがって待つほかないだろう。

 千尋の気配は、水のそばにあった。きっと、渡らずの河のほとりにいるのだろう。
 両親を豚に変えられ、目の前で帰り道をなくし、心細さに打ちひしがれる千尋の姿を思い浮かべると、ハクの胸はまるで自分のことのようにひどく痛んだ。何があろうと、あの子を守ってやらなくては、と思う。
 裏小路を抜けていくと、千尋の姿が見えた。廃屋のそばの暗がりで、膝を抱えてうずくまっている。その身体はおぼろげに透けて、今にも消えてしまいそうだった。生身で異界へ渡った代償だろう。
 ハクがしゃがんで、その肩に触れると、千尋はおびえて息をのんだ。
「怖がるな。私はそなたの味方だ」
 いや、いや、と千尋は取り乱して彼を遠ざけようとする。何を言ったところで、気休めになどならないことは、百も承知だった。しかしこの瀬戸際に、ゆっくりとなだめ諭している暇はない。
「口を開けて、これを早く。この世界のものを食べないと、そなたは消えてしまう」
 部屋からもってきた赤い丸薬をとりだして、どうにか食べさせようとする。けれど千尋は警戒して、首を振るばかり。
「いや!」
 一声さけんで、両手で彼を押しのけようとした。
 しかしその手は、あっさりとハクを通り抜けて、何にも触れることはない。
 ハクは丸薬を、途方に暮れる千尋の薄く開いた唇に押し入れてやる。このまま、千尋が消えていくのをだまって見過ごすことなどできない。
「大丈夫、食べても豚にはならない。噛んで飲みなさい」
 千尋はいやがりながらも、彼の言う通りにした。丸薬をゆっくりと噛んで、懸命に飲みくだす。固唾を飲んで見守っていたハクが、安堵に表情をやわらげた。
「いい子だ、もう大丈夫。触ってごらん」
 千尋の手がおそるおそるハクの手に触れる。もう先程のように、通り抜けることはない。
「触れる……」
「ね?」
 握り締めた手は温かく、離しがたいものだった。このままずっと握っていて、千尋が安心して休める場所まで、導いてやりたい。
「さ、おいで」
 立ち上がらせようとすると、千尋が繋いだ手にすがりついてきた。
「お父さんとお母さんは?どこ?豚なんかになってないよね?」
 切実な目でまっすぐに見上げてくる。
 肯定も否定もできず、ハクは、確かに約束できることだけを口にした。
「今は無理だが、必ず会えるよ」
 不意に、空によく知る気配を感じた。建物の軒から翼を広げるその姿がちらりとのぞく。
 ハクは咄嗟に、千尋を壁際へ追いやった。
 人の頭をもつ怪鳥が夜空を飛んでいる。あれは湯婆婆の、仮の姿だ。どうやら彼の師匠がこの町へ帰還したようだった。早くも千尋のことを嗅ぎ付けたらしい。
「そなたをさがしているのだ。時間がない、走ろう」
 手首をとって立ち上がらせようとするが、千尋の脚は凍りついたように動かない。
「立てない、どうしよう!力が入らない……」
 ハクは片膝をついて千尋と目線の高さをあわせた。震える彼女の手を両手で包み込み、強く握りしめる。
「落ち着いて、深く息を吸って」
 千尋が鼻で大きく息を吸い込んだのを見るや、彼女の脚に片手をかざした。
「そなたの内なる風と水の名において、解き放て」
 言葉は魂をもつ。千尋の名を知るからこそ、働きかけることができるまじないだった。
立って、とうながすと、それまで竦んでいた千尋の脚は、本来の力を取り戻してひとりでに動きだした。

 ハクは千尋の手をひいて風のように夜の町を駆けていく。人目につかないように油屋の従業員だけが使う裏道をとおった。食品庫を、冷凍庫を、豚舎をくぐり抜けて、橋のすぐそばの庭へ至る。
 単調な囃子の音と、出迎えの湯女たちのかん高い声がきこえてくる。赤い橋の上を、来客の神々がしずしずと渡っていくところだった。ハクは千尋を振り返り、二言三言つぶやいて彼女の頭に手をのせる。目くらましのまじないだ。千尋は固く目を閉じていたが、頭の天辺からつま先までまじないが染み渡ると、ほうっと息をついた。
「橋を渡るあいだ、息をしてはいけないよ。ちょっとでも吸ったり吐いたりすると、術がとけて店の者に気づかれてしまう」
 木戸をあけて橋のたもとに近づいていく。千尋が、心もとない面持ちでハクの腕にすがりついてきた。
「怖い……」
「心を鎮めて」
 不安に思うのも無理からぬこと。気の毒だが、しかしこの橋を渡らないことには、何ひとつ始まりはしないのだ。ハクは毅然と前を見据え、平静を装って出迎えの蛙男たちに声をかけた。
「所用からの戻りだ」
「へい、お戻りくださいませ」
 隣の千尋を勘付かれた様子はない。だが、安堵するのはまだ早かった。
「深く吸って、──止めて」
 千尋は言われたとおりにした。手で口を押えて、必死に息を押し殺す。足並みをそろえて橋に差しかかった。来客の神々にまぎれて着々と歩みをすすめていく。
「しっかり、もう少し」
 橋を渡りきるまであといくばくか、というところで、目の前に青いものが駆け寄ってきた。
「ハク様ぁ!どこに行っておった?」
 お調子者の青蛙がぴょこぴょこと飛び跳ねた。驚いた千尋が、息を切らしてしまう。目くらましのまじないがとけ、見えなかったはずの千尋の姿が、突如として油屋の明かりのもとに晒された。
「え、──人か?」
 あっけにとられる青蛙をハクは術で宙にとどめ、ほんの一瞬の時を稼いだ。
「走れ!」
 千尋の手をとり地面のぎりぎりを飛ぶ。他の者には突風が吹き抜けたように見えただろう。だが人間が現れたという事実を、隠しおおすことはもはやできまい。彼自身が出向いて、事の収拾をつけなければならないだろう。
 裾のまくれた湯女たちが黄色い声をあげるなか、ハクはなまこ壁の小さな木戸をあけて、素早く千尋を中に入れ、自分も身を隠した。

 坪庭に駆けこむと屋内の混乱が伝わってきた。ばたばたと廊下を駆け回るせわしない足音。ハクをさがす声、人が入り込んだぞ、人臭いぞ、という蛙男の声が漏れきこえてくる。
「勘付かれたな」
 紫陽花の陰で身を寄せて中の様子を窺っていると、千尋が泣き出しそうな顔をした。
「ごめん、わたし、息しちゃった……」
「いや、千尋はよく頑張った」
 顔をのぞきこんで目を合わせる。千尋は不安げな面持ちだ。できることならそばにいて、手取り足取り導いてやりたかった。だが今、二人揃って見つかるようなことがあれば、湯婆婆に会って契約の交渉をもちかけることが難しくなる。
「これからどうするか話すからよくお聞き。ここにいては必ず見つかる。私が行ってごまかすから、その隙に千尋はここを抜け出して──」
「いや!」
 千尋の目には恐怖の色がにじんでいた。
「行かないで、ここにいて、おねがい!」
 そうしてやれるならどんなにいいだろう。
 ハクは自分の水干をつかむ千尋の手をとり、静かに言い諭した。
「この世界で生き延びるためにはそうするしかないんだ。ご両親を助けるためにも」
「やっぱり豚になったの、夢じゃないんだ……」
 じっとして、と囁いて千尋の額に指先をかざす。ハクとて話したいことは、本当はたくさんあった。もどかしいが、言葉で伝えるにはもはや時間が足りない。
 騒ぎが静まったらボイラー室に行き、釜爺に会うようにと告げる。
「その人に、ここで働きたいって頼むんだ。断られても、ねばるんだよ。ここでは仕事を持たない者は湯婆婆に動物に変えられてしまう」
「湯婆婆って?」
「会えばすぐにわかる。ここを支配している魔女だ。いやだとか、帰りたいとか言わせるように仕向けてくるけど、働きたいとだけ言うんだ。つらくても、耐えて機会を待つんだよ。そうすれば、湯婆婆は手は出せない」
「うん……」
 今にも泣き出しそうな目をして、千尋は頷いた。
 一人で行かせるには、あまりにもしのびない。けれどこうするほかに道はなかった。釜爺は口当たりこそ厳しいが、面倒見のいい善良な老人だ。ハクが訪ねてきた時も、はじめこそ反対して追い返そうとしたものの、結局は湯婆婆のもとへ導いてくれた。釜爺に委ねれば、きっと事情を察してうまくとりはからってくれるだろうと、今は信じるほかない。
 従業員の女たちが中でハクを捜し回っている。これ以上、留守にはできない。
「行かなければ。忘れないで、私は千尋の味方だからね」
 手を離す間際、千尋が、どうして自分の名を知っているのかとたずねてきた。
 そなたの小さい時から知っている、と彼はこたえる。
「私の名は、ハクだ」
 それは本当の名ではないが、それ以外に、彼は千尋に名乗るべき名をもたない。
 名残惜しみつつ、手を離した。後ろ髪を引かれながらも、ひとりきりでは残しがたい少女に、ハクは背を向けた。



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