第1章

 夢を見ていた。
 どのような夢であったか、定かには思い出せない。
 それは失った記憶を振り返る長い走馬灯であったか、あるいは心の望みを映し出す、つかの間の白昼夢だったのか。
 どこか冷たく、心地よいところにいたような気がする。
 その場所で、おぼろげながら幼い子どもの声をきいた。
 声に応じるように、彼はその子どもの名を呼んでいた。
 こちらへおいでと、呼び寄せていた。
 心を込めた言葉は魂をもった。
 そしてそのあとは──

 思い出せない。
 目を閉じても、見えるのはただ深い闇ばかり。
 帰り道さえ忘れてしまった者に、闇は何ひとつ、明かしてはくれない。


「ハク様?」
 蛙男の呼びかけに、少年は長い睫毛を揺らす。それはこの湯屋における、仮初の名だった。本当の名はすでに失って久しい。
「どうなすったんで?ひょっとして、具合でも悪いんですかい?」
「いや、何でもない。いつも通り、支度にぬかりのないように」
 へい、と一跳ね返事をして、蛙男は持ち場にもどっていった。
 今宵も湯治に訪れる八百万の神々をもてなすため、油屋は始業の準備に追われている。湯殿の清掃、客間の設え、御膳の用意、湯女の身支度、すべてが蛙男やナメクジ女たちの仕事だ。じき太陽が傾き、夜の帳がおりるだろう。不思議の町に明かりがともれば、それは油屋開店の合図。その刻をつつがなく迎えるために、準備を怠ってはならない。上役の立場にあるハクは、今日も人一倍早く起床し、各所に滞りなく指示を出している。
 ──今日は心なしか、いつもより身体が軽く感じられる。
 この湯屋を支配している魔女が、外出していて居所を離れているせいだろうか。
 やっきになって風呂釜を擦っている蛙男たちを後目に、ハクは、そっと自分の腹に触れる。
 あの魔女に、妙なまじないを仕込まれたことは知っている。近頃、ますます自分を見失いかけているような気がするのは、おそらくそのまじないのせいだろう。
 知っていながら、どうにもできないことがもどかしい。
「おーい、そろそろ薬湯入れるぞー!」
 蛙男たちの手によって磨き上げられた風呂釜に、くすんだ色の薬湯が注がれていく。ボイラー室の蜘蛛男が調合し、沸かしているものだ。釜爺と呼ばれるその男には、ここに来たばかりで右も左もわからなかった頃、よく世話になった。
「お前さん、ちょっと見ねえ間に随分と目つきが悪くなったなあ──」
 いつであったか、ボイラー室を訪ねた折に釜爺に言われたことを、ハクは思い出していた。
 あの蜘蛛男は、魔女に弟子入りしたいと一点張りのハクを、最後まで引き留めようとした。魔女の弟子になっても、碌なことはない、という。
 その忠告を振り切って、愚かにもハクは湯婆婆に会いに行った。
 契約を結んだことで、彼は本当の名を奪われた。いつしか、帰り道を忘れていた。魔女に言われるがまま、悪しきことに手を染めざるを得なくなった。今や何のためにあれほど切実に魔法を習得したかったのかさえ、思い出せない。
 蛙男たちは次の風呂釜へ移っていった。薬湯で満たされた風呂釜を、ハクは縁に手をかけて覗き込む。
 ──私の目は淀んでいるだろうか。
 水鏡が問いかけに答えることはない。冷めた眼差しの少年が、見つめ返してくるばかり。
 だがそうして水を見ていると、しだいに穏やかな心持ちになってくる。
 今朝がた見た、夢のことが思い起こされた。
 心に溜まった澱を、流し出してくれる夢。その夢できいた声の主を思うと、まるで、身も心も洗い清められるかのようだった。
 自分が何者かもわからぬまま魔女に使役される。この現実こそが悪夢で、あの水のように澄んだ夢こそが現実であったなら、どんなによいだろうと思う。
 夢で見たものを忘れたとしても、この心を満たす幸福感はしかと憶えている。
 一目でいい、あの声の主に、会ってみたい──。

 薬湯に映し出されたハクの姿が、突如、かき消えた。
 代わりに、苔生した石像がおぼろげながら浮かび上がる。
 ──石人が見ているものは、猛スピードで通り過ぎていく車。そして駅舎の赤いトンネルに吸い込まれていく、三つの背中。
 それは、トンネルのむこうからの報せだった。
 どうやら、神でないものが、こちらの世界にまぎれこんだらしい。

「湯婆婆様は、まだお戻りではないな?」
 近くの蛙男をつかまえてきけば、いいえ、と首を振る。人間がこの世界に迷い込むことは珍しいが、見つかればただでは済まない。湯婆婆が帰っていればどうすることもできなかっただろう。今ならまだ救うことができるかもしれない。
「私は所用で外に出てくる。そのように父役に伝えておけ」
「はあ。ですがハク様、もう店を開ける時間になりますよ。いつお戻りになられるので?」
「すぐに戻る。日が落ちたら、明かりをともしてお客様方をお迎えしろ。よいな?」
 じきに逢魔が刻。なんとも悪い刻限に迷い込んだものだ。日が暮れれば、石段のむこうの草原は八百万の神々を渡す河となり、トンネルのある駅舎には戻れなくなる。そうなる前に送り返してやらねばならない。
 玄関の暖簾をくぐり、橋に足をかけた。迷い込んだ人間の気配は、辿るまでもなくすぐそばに感じられた。三人のうち、どうやら二人は食堂街にいるらしい。神々の供物に手を出したのだろうか、何やら周囲から不穏な気配がする。
 そして残りの一人は、ハクの視線の先にいた。
 線の細い人間の少女だった。朱塗りの欄干から身を乗り出して、ものめずらしそうに下を覗き込んでいる。年のころは十になるかならないか、といったところだろうか。両親とは別行動をとっているようだ。
 ──なぜだろう。
 ハクはわけもわからず、胸騒ぎを覚えた。
 もっと少女の顔をよく見ようと、気配を押し殺して近づいていく。
「電車だ!」
 少女は反対側の欄干に駆けていき、同じように橋の下を通り過ぎる海原電鉄を見下ろす。
 すぐそばにたたずむ彼の存在に、気づいた。
 誰?と言いたそうに、きょとんとした顔で、彼を見る。
 夕暮れ間際の陽だまりに照らされるその面差し。つぶらな瞳がまっすぐに彼をとらえる。
 ハクは、息の竦む思いがした。
 相手はおそらく彼を知らないだろう。だが、彼は違っていた。
 ──私はこの子を知っている。



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