逢ふ夜はこよひ


 開けっ放しの窓から見上げる夜空は、あいにくの雨模様だった。
 崖下の平原には雨水の海がみちている。雨だれの音はしばらくやみそうにない。何も七月七日の夜にここまで降らせることはないだろうに、お天道様は薄情だ。
 千尋はそっと窓を閉じて、客たちが食い散らかした座敷の後片付けにとりかかった。
「ここにいたんだね、千尋」
 皿を重ねながら振り返ると、ハクが襖からひょっこり顔をのぞかせている。周りに誰もいないらしく、二人きりの時の打ち解けた態度だ。
「姿が見えないので捜したよ。どうして降りてこないの?」
「みんないなくなっちゃったから、後片付けしなきゃいけないと思ったんだけど……」
「片付けはあとでいいよ。千尋も降りておいで」
 ハクはにっこりと笑って、手招きした。
「これから大広間で流しそうめんをするんだよ。毎年、従業員も参加していいことになっているんだ」
「そうなの?」
「うん。リンに教わらなかった?」
 そういえばと千尋は思い至る。昨日の仕事終わりにそんなことをちらっと聞いたかもしれない。今日も忙しくてすっかり忘れていた。
 廊下は閑散としている。雑用から帰ってみるとどの座敷もがらんとしていたので、不思議に思っていた千尋だったが、客も従業員もみな流しそうめんを目当てに大広間に集まっていたようだ。
「七夕かあ。雨、降っちゃったけど」
 従業員用の階段をおりながら、千尋は何気なくつぶやいた。
 流しそうめんの宴会が始まったらしく、下の階からは賑わいが伝わってくる。
 ハクは階段の途中で振り返り、数段上にいる千尋を見上げた。
「昨日、北から雨雲が近づいていたからね。降るだろうとは思っていたよ」
「今日は天の川、見えないかな?」
「うん。この雨では見えないだろうね。月さえ見えない曇り空だから」
 もう一階下におりると、さらに騒がしくなってきた。宿泊客と従業員が一堂に会して盛り上がっているようだ。
 千尋はハクの肩に触れる。
 ハクはまた振り返って、どうしたのと訊くかわりに、優しく笑いかけてきた。
「彦星と織姫、今年は会えないのかな?」
「天の川が見えなくても、逢瀬はかなうはずだよ」
「そうかなあ……」
 ハクは千尋の手をとる。
 まるで二人で川を下るかのように、その手を引いて、一段一段おりていく。
「もし私が牽牛なら、天の川など迷いなく飛び越えて、織女のそなたに逢いに行くだろうね」
 ハクが牽牛で千尋が織女。思わぬたとえに、千尋は頬を赤らめた。
「──ほんとうに?」
「もちろん」
 添えていただけの手をハクが握りしめる。
 ひたむきな眼差しに射抜かれて、千尋の胸は高鳴った。
 ハクの深い緑の瞳にじっと見つめられると、ここのところどうも落ち着かなくなる。
「天の帝にとがめられようと、川の渡し守に止められようと、すべて振り切って千尋のもとへ飛んでいくよ」
 とびきり美しい微笑みをちらつかせて、白龍は一足先に大広間へと行ってしまった。

 彼の言ったことは冗談なのか、本気なのか──。
 冷たい水に乗って長い青竹を涼やかに流れていくそうめんをぼんやりと見送りながら、千尋は考えあぐねている。
 牽牛と織女が仲睦まじい夫婦だったという話は、神話や伝承に疎い千尋も知っている。
 ハクはいったいどういうつもりで、あんなことを口にしたんだろう。
「千」
 肩を叩かれて振り返ると、リンだった。ついてこいと目配せしてくる。
 馴染み客であるオオトリ様の団体に付き合っていた千尋だったが、断りをいれて、席を立った。
「リンさん、わたしになにかお仕事?」
 ああ、とリンは頷く。
「ちょっとした雑用なんだけどな、今年はお前にまかせようってことになったらしいんだよ。頼まれてくれるか?」
「わかった。どんなお仕事?」
「タナバタツメのお役目だよ」
「タナバタツメ?」
 姉貴分は「棚機女」という役目について、かいつまんで説明してくれた。
「棚機ってのは、大昔の禊みたいなものらしいぜ。縁起がいいから、今でも湯婆婆が毎年形だけやらせてるんだ。──七夕の夜に、下働きの湯女の中からひとり『棚機女』を選んで、河のそばの廃屋に行かせるんだ。そこを機屋【はたや】に見立てるんだって。お前がまずやることは、そこにある機織り機に触ること。機織り機には魔法がかけてあるから、お前が触ると、勝手に着物が織り上がるようになってるんだ。で、その着物を、お前が機屋から出て最初に会った神に手渡す。それでお役目終了だ」
 千尋は忘れないように、もう一度手順を聞きなおした。──機屋に行って、機織り機に触る。できあがった着物を、最初に会った神にささげる。
「俺も何年か前に選ばれたけどさ。特に面倒なこともないし、楽勝だったぜ」
 リンは千尋に湯浴みをして体を清めるよう言いつけた。湯上がり後には、千尋が古めかしい儀礼用の衣装を身に着けるのを手伝った。
「さっさと終わらせて帰ってこいよ。ぐずぐずしてると、せっかくのそうめんがみーんな食われてなくなっちまうぞ」
はあい、わたしの分もとっておいてね、と千尋は笑いながら返事した。

 雨が降っているので、番傘を差して外に出る。橋の上にはちらほらと日帰り客がいて、千尋は通り過ぎざまそれぞれに会釈をした。
 飲食街は雨降りの夜も賑やかだった。あちこちの店の軒に大小さまざまの笹飾りがみられる。色鮮やかな短冊や吹き流しが雨にしっとりと濡れている。雨の匂いにまじって漂ってくる料理の香ばしさに、千尋の腹がぐうと鳴った。
「そうめん、もうちょっと食べてくればよかったかなあ」
 などと後悔しながらも、役目をまっとうするため町はずれの河へと足を向ける。
 船着き場には客神を乗せてきた屋形船がいくつも連なって泊めてあった。赤提灯の灯りがちらちらと水面に揺れている。水平線のむこうは霧がかって晴れの日ほどはっきりとしないが、極彩色のネオンが絶えず瞬いているのがおぼろげながら見える。
 千尋は機屋に見立てた廃屋に入った。長年空き家のようだが、最低限の手入れは定期的にしてあるらしく、部屋の中は小ぎれいだ。照明をつけてみると、奥の方にリンの言っていた機織り機がおいてある。千尋は手前の椅子をひいて座り、持ち手にそっと触れてみた。すると機織り機は眠りから醒めたようにひとりでに動き出し、みるみるうちに光輝く糸で一着の衣を織り上げていった。
 衣ができあがると、千尋はそれを丁寧にたたんで、外へ出た。雨は先程よりもいくばくか弱まっている。もう片方の手で番傘を差して、きょろきょろとあたりを見回した。機屋を出て最初に会った神に織り上げた衣を渡さなくてはならないというが、さて、いったい誰が現れるだろう。
 千尋は河辺の石段に立ち、夜空を見上げた。
 雲の陰から、先程は見えなかった月がちらりとのぞいている。
「上弦の月は、天の川の渡し舟だそうだよ」
 ──驚いて、番傘も衣も手放してしまった。
 声の主がすかさず手を差し出して、水たまりに落ちかけた衣を受け止める。番傘も拾い上げて、千尋が濡れないように差してくれた。
「驚かせてしまったね」
 おぼろげな月明りと、河面に揺れる屋形船の赤提灯が照らし出すのは、白い龍の化身。
 彼と顔を見合わせた時、千尋は、はっと思い至った。
「機屋を出て最初に会った神様──。ハク、その着物、もらってくれる?」
 ハクは、今しがた腕に受け止めた白い衣を見おろした。
「そうだね。これは、私がいただこう」
「ハクは川の神様だもん、きっとあげても大丈夫だよね?」
 思いがけず役目を終えることができて、千尋はほっと胸をなでおろした。
「でも、すごい偶然。まさかハクと最初に会うなんて」
 ふふ、とどこか満足そうな顔をして笑う龍。
 千尋は小首を傾げる。
「ハク、どうして笑ってるの?」
「いや。実はね、偶然ではないんだよ」
 ハクは内緒話のようにそっと耳打ちした。
「千尋から棚機衣をもらいたくて、ここまで歩いてきたんだ。──棚機女のお役目、ご苦労さま」
 彼の唇が触れそうな耳がこそばゆくて、むずむずする。千尋は頬のほてりを気づかれないように、ハクに背を向けた。
「千尋?」
「……ハクって、時々よくわからない」
 千尋はちらりと後ろを振り返る。千尋の言ったことは聞こえなかったらしく、ハクはもらい受けた棚機衣を、嬉しそうに広げているところだった。
「ごらん、見事な衣だよ」
「わたしは何もしてないよ。魔法が勝手に作ってくれたもん」
「でも、まるで私のためにあつらえたかのようだ」
 千尋はまじまじと着物を観察する。白く輝く衣の裾には、ゆるやかにうねる川と、夜半の月、そして緑のたてがみをもつ白龍があしらわれているのだった。
「魔法は人の心をとらえるというよ。──千尋、機屋にいるあいだ、ずっと私のことを考えてくれていたんだね?」
 嘘をつき通す自信もない。
 ほてる頬を手うちわであおぎながら、千尋は正直に白状した。
「最近、ハクのことで頭がいっぱいなの。気が付くとね、ハクのことばかり考えてる。ハクが言ったことが気になって、ずっとずっと、頭から離れないの。わたし、やっぱりどこかおかしいのかな……?」
 雨脚は弱まり、いつしか小雨になっていた。
 月の舟が夜空にたちこめる雨雲を渡りながら、さえざえと光を放っている。
 ハクは番傘を閉じて、千尋の肩にそっと触れた。
「それは、病かもしれない」
「病?」
「ひょっとするとね。私にとっては、このうえなく嬉しい病だ」
 ハクは魔法で織り上げたばかりの棚機衣を広げて、千尋の肩にかけてやった。夜風を浴びたように、たなびく裾が空気をはらんでかろやかに浮かび上がる。
 棚機は禊と言ったリンの言葉は、あながち嘘ではないのかもしれない。衣をまとった瞬間、千尋は心が洗い清められるような、すがすがしさを味わった。
「棚機女は、そなたのように清らかな乙女でなければつとまらない。千尋は立派に役目を果たしたね」
 目の前で微笑むハクに、今夜はどうしてか一段と心惹かれる。
 片時も、離れていたくないと思う。
 対岸のネオンの灯りで、星屑を散らしたように輝く河。天の帝も渡し守も、ここには誰ひとりとして存在しない。
 誰にも、ふたりの逢瀬の邪魔はできない。
「そろそろもどろうか、千尋。──それとももう少しだけ、このままでいようか?」
 みんなで仲良く流しそうめんもいいけれど──。
 千尋はハクの手に、遠慮がちに触れた。
「今夜は河がきれいだから、ハクと見ていたいの」
 そうだね、とハクは一言。
 指をからめて、千尋の手をそっと握り返してきた。
「もう少しだけ、私のそばにいておくれ」
 顔を見る勇気はなかったものの、千尋は、ハクが穏やかな眼差しで自分を見つめていることを知っていた。




2016.07.07 七夕記念
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