うぶすなまいり


 ──199×年、6月10日。
 産土参りのその日、六道家は雨季らしからぬ晴天に恵まれた。
 氏神を祀る三界神社までは自宅から徒歩20分ほど。一家は他愛もないおしゃべりに興じながら、神社までの道をのんびり歩いた。揃いも揃って和装姿の一家は、いかにも余所行きといった出で立ちで、車や歩きで通り過ぎる人たちの目を引いた。
 生まれて間もない子どもを連れて、氏神に挨拶参りに行く日。
 六道家が揃ってどこかへ出かける、最初で最後の機会だった。

「よかったね。今日は雨が降らなくて」
「本当に。この子のために、氏神さまが晴れにしてくださったのかもしれないわねえ」
 祖父母が満足そうに笑いながら孫の顔を覗き込む。
 この世に誕生してまだふた月と満たない乳飲み子は、母親の腕におとなしく抱かれていた。父親譲りの赤い瞳でじっと二人を見上げながら、お気に入りのおしゃぶりをくわえている。
 ──命名、六道りんね。
 六道家が目に入れても痛くないほどかわいがっている、待望の初孫である。
「この子って、とても賢そうだと思わないかい?魂子」
「そうねえ。まだこんなに小さいのに、やけに落ち着きはらってるというか。顔はそっくりなのに、誰かさんとは大違いなのよね」
「そうだね。このくらいの歳の時、誰かさんはこんな風におとなしくなんてしていられなかったからねえ」
「そうそう。甘えん坊で、やんちゃで、本当に放っておけない子だったわねえ」
 舅と姑のほのぼのとしたやり取りに、嫁はおかしくなって隣の夫を見上げた。
「ねえ、あなたお義父さまとお義母さまに、あんな風に言われてるわよ?」
「おとうさまもおかあさまも、ひどいなあ。ぼくに似たからこんなにかわいく生まれてきたのに。──ねえ?おまえもそう思うだろう、りんね?」
 鯖人は同意をもとめて幼い息子ににっこりと笑いかけるが、瓜二つの顔はまったくの無反応である。残念ながら、父親の味方になってはくれなさそうだ。
 りんねが身にまとっている、重厚感のある黒羽二重の紋付羽織。それは彼の祖父母が、数十年前に老舗の呉服店で購入したものだった。鯖人の産土参りのためにあつらえたものである。少々値の張る代物だったが、どうせ買うなら孫子の代まで使えるものを、と魂子がこだわったのだった。
「乙女さん。いつかりんねに男の子が生まれたら、神社へ行く時にこれを着せてあげたらいいわ。二十年先になるか、三十年先になるかわからないけれど。その時まで、また箪笥の奥に大事にしまっておくから」
「お義母さま、お気が早いですわ。この子はまだ生まれたばかりですのに」
 ころころと笑う乙女に、魂子も微笑む。彼女の人差し指を、りんねの小さな手が握り締めていた。このくらいの歳の子どもは、目にしたものはなんでも手にとりたくなるものなのである。
 彼女の息子も、かつてはそうだった。
 見違えるほど成長した後ろ姿を、魂子は感慨深くながめる。
「子どもはあっという間に大人になるものよ。──りんねだって、今はこんなに小さいけれど、きっとすぐに大きくなるんだから」
「そうでしょうか?」
「ええ。乙女さんの身長も、きっと気づかないうちに越されてしまうわよ」
 乙女にはまだ、りんねが立派に成長した姿を想像することは難しかった。昼夜を問わずつきっきりで世話している今は、この子がいつまでも、小さくてかわいい坊やのままでいるような気がしてならない。いつかはこの手を離れて独り立ちする日が来るのだろうが、今はまだ、それは遠い先にある未来としか思えないのだった。
 三界神社に至る石段が見えてきた。道沿いに咲く紫陽花がちょうど見ごろを迎えており、鳥居まで続く道のりにすずしげな色彩を添えている。
 父親と言葉を交わしていた鯖人が、乙女に振り返った。
「ママ。階段はきついだろうから、ぼくがりんねを抱っこしてあげるよ」
「お願いしてもいいかしら?」
「うん。さ、パパのところにおいで、りんね」
 りんねは母親から離れることがどことなく名残惜しそうではあったが、駄々をこねて親の手を煩わせるようなことはしない。おとなしく父親の腕に抱かれることになった。
 幼い息子を落としてしまわないように、大事に抱えながら、鯖人は視界の先にある赤い鳥居を見上げる。
「りんね、のぼりながら階段の数でも数えてみようか?」
 いち、にい、さん。一段一段、着実に踏みしめてのぼっていく。
 ──大人にならない子どもはいない。
 あの放蕩息子が随分と父親らしくなったものだと、祖父母は微笑ましく見守っていた。

 りんねのために、一家は祝詞をあげてもらうことにした。
 三界という町は現世でもひときわ霊道の通じやすい界隈であり、悪霊やら悪魔やらよからぬものも少なからずうろついている。祝詞などきっと気休めでしかないが、五千円という安くはない玉串料を払った以上、三界町を守る土地神の加護に期待したとて罰当たりにはならないだろう。
「まあ、鯖人の時にも祝詞をお願いしたけれど、結局あまり加護は得られなかったようね」
 じろりと魂子が流し見れば、鯖人はおそれをなして嫁の背後にさっと隠れた。
 りんねの祝詞を頼む時、神社に渡すはずだった初穂料をこっそりくすねようとしたのがばれて、母親にしかとお灸をすえられたのだ。
「少しは父親らしくなったかと思って、見直した矢先にこれだもの」
「まあまあ。今日はりんねのめでたい日なんだし、許してあげようよ。──乙女さん、今度はぼくがりんねを抱っこしてもいいかい?」
 慣れない外出で疲れたのだろうか。祖父の腕の中で、りんねは小さなあくびをした。
 眠たげに目を擦るその愛らしさに、一家はそろって頬をゆるませている。
「りんね。おまえはきっと、世界で一番かわいい子どもなんだろうねえ」
「おとうさま、ぼくも同じことを言おうと思っていました」
 鯖人が指先でその柔らかい頬をちょんとつついた。
 うとうととまどろみながらも、りんねは父親のいたずらをとがめるような目をしている。鯖人に対してはややつれない子どもだが、構わずにはいられない。
「赤ちゃんだからって、ママを独り占めするのはずるいけどさ──。それでもパパは、りんね、おまえのことがかわいくて仕方がないよ」
 彼はかがんで、幼い息子の頬に軽く触れるキスをした。
 自分と生き写しの小さな生き物からは、ミルクの甘いにおいがする。
 ──なんて愛おしいんだろう。
「パパ、今、幸せ?」
 乙女が笑いながら聞いてきた。
 うん、と彼は素直に頷く。
「幸せだよ。──りんねがいて、ママがいて、おとうさまとおかあさまがいてくれて」
 子どもは家族の宝物。
 この子がいるかぎり、家族はいつまでも結びついていられる。
「うんと眠って、うんと食べて、元気いっぱい大きくおなり。りんね」
 ふと、鯖人は自分の価値観が変わりかけていることを思い知った。
 愛する家族がいる。守りたいものがある。
 もう一人ではない。
 目先の楽しみよりも、選びたいと思える幸せが家族の中にはあった。
「いい加減、心を入れ替えようかな──」
「何か言った?」
「ううん、なんでもない」
 改心して真面目に働くと言ったら、妻は喜んでくれるだろうか。
 心配ばかりかけてきた両親を安心させられるだろうか。
 足取りも軽く石段を下りながら、鯖人は笑う。
 この幸福が続くかぎり、できないことなどないような気がした。




2016.06.10 Rokudo-Day
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