花の名前



 六道りんねは目を丸めている。馴染みの花魁が、普段とはまるで違う出で立ちで現れたのだ。
 髪は結い上げず、両脇に編んである。櫛や簪はもちろん一本も挿していない。化粧もせず、きらびやかな金襴緞子もまとわず、いたって簡素な装いだ。
 彼女は申し訳なさそうに頭を下げてくる。
「ごめんなさい。今日は支度をする時間がなくて」
「いや、全然気にしてない」
 りんねは花魁のしっかりと編まれたおさげに触れる。清純清楚な華族のお嬢様といった風情だ。
「むしろこっちの方が似合う。お前らしい気がする」
 素直な感想を口にしたのだが、花魁は黙ってしまった。気に障ることを言っただろうか。
 勇気を出して、手に隠していたものを、彼女の耳の上にそっと挿した。野辺にたたずむ木から失敬した、桜の花だ。
「外はすっかり春めいてきた。──桜は好きか?」
 彼女は花の簪に触れた。桜の感触を指で確かめて、嬉しそうに目を細める。
 良かった、嫌がられてはいないようだ。
「好きだよ。花の中で、桜が一番好き」
「そうか。だったらいつか、ここを出て一緒に見に行こう」
 花魁は目を見開く。今にも泣き出しそうだと焦った瞬間、その顔は、大輪の花のようにほころんだ。
 こんなに表情豊かな彼女は、見たことがない。
 ──その夜は、まるで初めて彼女とまじわった時のように、胸の高鳴りを終始抑えられなかった。
 彼が果てる間際、彼女は彼の耳元に唇を寄せて囁いたのだ。
 悦びに震える声で。
「ありがとう──」

 この花街に桜はない。
 いつの日かきっと、この手を引いて、名前も知らない彼女をあの花のもとへ連れて行く。





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