苦界鳥


 天上を飛ぶ極楽鳥にあやかり、この楼【みせ】を「極楽楼」などと名づけた楼主は悪趣味だ。
 ここにいるのは、廓という名の地獄に突き落とされた、苦界鳥ばかりだというのに。
「久しぶりだね、翼くん」
 張り見世の格子の奥で、花嫁人形のように着飾った幼なじみが笑っている。あまりにも痛ましいその笑顔に、若者は胸をかきむしりたい衝動に駆られた。
 ──夜の帳がおりた頃、花街大門のガス灯がともり、見世開きの刻を告げる。昼と夜が逆さまになったこの歪な街で、彼の初恋の人は、その身を削って生きているのだ。
「今日はお祓いの仕事?それとも──?」
 うまく笑い返せているだろうか。
「向こうの夜鷹小屋で幽霊騒ぎがあってね。お祓いに呼ばれたのさ」
「そうなんだ。──それで、幽霊は?」
「たちの悪いのがいたよ。花柳病で苦しんで死んだ女郎の霊だろう。俺が除霊して弔ったから、もう大丈夫だよ」
 よかった、と彼女は胸をなで下ろした。女郎に落とされ男共に体を弄ばれようと、その心根は変わらず真っ直ぐなままだ。
 翼は格子の向こうのその姿に、ひどく心かき乱される。
「きみの一晩を買いたい。──いいだろう?」
 彼女の顔は見ずに、入り口で客寄せをしている妓夫にかけあった。「極楽楼」の中に通され、遣手婆の挨拶を受けて座敷に上がる。
 間もなく琴をたずさえて、しずしずと花魁川蝉がやってきた。
 愛用の琴をつま弾く姿に、深窓の令嬢だったあの頃の彼女が重なる。たどたどしかった指使いが今やすっかり板についたのは、きっとこの楼で妓芸を手取り足取り仕込まれたからだろう。
 ──いつかうまく弾けるようになったら、きかせてあげるね。
 否応なしに昔のことが偲ばれ、胸が詰まった翼は絞り出すように声を発した。
「──桜さん」
「その名前を呼ばないで」
 琴の音が途切れた。薄化粧をほどこした顔が泣き出しそうにゆがむ。
「私は花魁の川蝉。『桜』はもう、どこにもいないの」
「いるじゃないか、俺の目の前に──」
 細い手首をつかみ寄せる。結い上げ髪から簪のひとつがこぼれ落ちた。
 身を固くする彼女だが、花魁に抵抗は許されない。
「きみは高嶺の花だった。──手の届かないきみに、俺はどうしようもなく恋い焦がれたんだ」
 うっすらと紅を点した唇を奪う。そして初めて舌を入れたが、桜は拒まなかった。観念して、もてる全てを彼にゆだねる。
「翼くん、翼くん……ごめんなさい」
 今の彼女は、苦しそうにもがく哀れな鳥だ。
 何度もここから連れ出そうとした。身請けも真剣に考えた。彼女のためならどんなこともすると覚悟を決めていた。爪を剥いでもいい。指を切ってもいい。なんだったら命さえ捧げよう。けれど桜は決して首を縦に振らなかった。翼の手を取ることはなかった。
 心を傾ける相手が他にいるのだ。おそらく桜自身は気づいていないのだろうが、翼は知っている。「極楽楼」の川蝉の情夫【いろ】と噂される六道という若者のことを。その男もまた、桜を好いているのだということを──。
「きみが好きだよ。ずっと昔から憧れてた。──誰にも渡したくない」
 胸が苦しくて、涙が出てくる。きっと泣きたいのは彼女の方なのに。好きだといいながら、大事にしたいと望みながら、その体を欲望のまま貪った自分に、決して涙を流す資格などないのに。
 啼き疲れた鳥は彼に背を向けて眠っている。いったいどんな夢を見ているのだろう。幸せだった頃の夢だろうか。その夢の中に、彼はいるだろうか。
「きみが忘れてしまいそうになったら、俺が何度でもきみの名前を思い出させてみせるよ。真宮桜さん──」
 むき出しの白い背中に唇を這わせる。
 苦界に生きる鳥に翼はない──。
 そして彼は、彼女に翼を与えてやる術をもたないのだ。




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -