鳥の名前


 そういえば──と繻子の帯を解かれながら花魁は思う。
 彼女の名を、その赤い髪の客は一度も呼んだためしがない。
 名といっても生みの親に与えられたものではない。初めてこの妓楼の敷居をまたいだとき、楼主につけられた仮初めの名だ。
「あなたは私の名を、知らないわけではないんでしょう?」
 客が彼女の着物にかけた手を止めた。
 こうしてくだけた口調で話すのは、相手が彼女と同年代であり、畏まらずにそうしてほしいと最初のお床入【ひけ】で言われたからだ。
 知っているさ、と。
 六道という名のその客は、彼女の目をじっと見つめて、ひとたび頷いた。
「だが、それはお前の本当の名前ではないはずだ」
「本当の名前──」
「生まれたときから、お前は『川蝉』と呼ばれていたのか?」
 彼女は静かに首を振る。ほつれ髪がひとすじ、白い頬にはらりと降りかかった。
「『川蝉』は私の本当の名前じゃない。ここの花魁は、みんな鳥の名前をつけられるの」
 頬白、四十雀【しじゅうから】、葦切、繍眼児【めじろ】、青鷺、丹頂。
 廓の女は籠の鳥。
 過去の名を奪われとらわれの身となって、花街という苦界に生きる。
「──ひとつ、頼みがあるんだ。聞いてもらえないだろうか」
 外は雪がちらついている。彼女の肌に触れる六道の手は、氷のように冷えていた。背筋が震えるのは寒気のせいなのか、はたまた快楽のせいか、わからなくなる。
 思わずつかんだ彼の腕にも、ざわりと鳥肌がたっていた。
 寒いのなら温めてあげたい──。
 だが火鉢の方にのばしかけた手を、奪われまいとばかりに、彼の手が強く握りしめてくる。
「頼みごとって、──何?」
 花魁は目を細める。
 六道の真摯な眼差しは、初めてのときから寸分たりとも違うことがない。その赤い瞳には、いつも花魁ただひとりが映っていた。どれだけの名鳥にさえずりかけられようと、見向きもしない。外から花街へ至る大門をくぐれば、真っ先に彼女のもとへ、鳥籠を開けにやってくる。
「いつか、お前の本当の名前を教えてほしい」
「どうして?」
「知りたいから」
 えもいわれぬ喜びが、彼女の胸を満たした。なぜこんなにも嬉しいと思うのか、わからないというのに。──男は移り気な生き物。ぬか喜びになるかもしれないと、疑心暗鬼にもなるのに。
 虚飾にいろどられたこの花街にあって、彼の言葉だけは、嘘偽りであってほしくないと思う。
「お前のことは、なんでも知りたい」
 ──彼女は廓にとらわれた美しい鳥。
 年の頃は数えて十六。初見世からもうじき一年が経とうとしている。
 男はすでに数え切れないほど知っている。
 けれど恋は──おそらくまだ、ひとつとして知らないだろう。



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