With you

*犬桔 もしも五十年前の悲劇がなかったら。

 随分と登ったつもりでいたが、まだ頂上は見えてこない。
「山登りがこんなに堪えるとは、知らなかったぜ」
「ふふ。人のからだというのは、なかなか楽ではないだろう?」
 桔梗は胸元から手拭いを引き出し、犬夜叉の頬を伝う汗をそっとぬぐってやった。
「疲れたのなら、ひと休みしようか?」
「けっ。男がそんなめめしいこと言ってられっか」
「見栄を張ることなどないさ。実のところ、私も少しばかり歩き疲れているんだ」
 にっこりと毒気のない表情で笑いかけられると、犬夜叉はもう何もかもどうでもよくなってしまう。
 いまは彼の伴侶となった元・巫女は、二人で座るのにちょうどいい大きさの岩場を見つけると、そのそばに背負っていた荷をおろした。
「急ぐ道行きでもなし。人を待たせているわけでもなし。のんびり山越えしたとて、誰も私達を咎めはしないよ」
「まあ、そうだけどよ。──しかし桔梗、おめーがそんなことを言うとはな」
「どういう意味だ?」
「俺はてっきり、桔梗はもっと、きびきびした女なのかと思ってたぜ」
 ほつれた黒髪を束ねなおしながら、桔梗はちらりと犬夜叉を流し見た。唇がゆるんでいるのは、機嫌のいい証しだろう。
「私はもう、ただの女だ。誰にも気兼ねせず、自分の思うままに生きているだけだよ」
 桔梗の差し出した竹筒に、犬夜叉は口をつける。水はまだひやりと冷えていて喉ごしがいい。桔梗は眼下にひろがるのどかな景色を見下ろしている。山の斜面に幾枚にも折り重なる棚田は、昼下がりの澄んだ青空をその水鏡に映し出している。
「桔梗」
 犬夜叉はその美しい横顔を覗き込んだ。妖から人へと形を変えてでも、添い遂げたいと願った女は、日々見違えるほど表情豊かになっていくようだった。
 見慣れた巫女装束を脱いだその日から、桔梗は生まれ変わったのかもしれない。
「巫女をやめて、せいせいしたか?」
「自由になったと、心から感じている。──犬夜叉、お前のおかげだ」
 桔梗は犬夜叉の肩に頭の重みをあずける。
 人間になるという願いを叶えるために、彼が一思いにのみこんだ四魂の玉は、腑の中で消滅することなく体内に留まり続けているという。桔梗がともに在るかぎり、玉は浄められ、犬夜叉に害をなすことは決してないだろう。
「疲れが少しはほぐれたか?犬夜叉」
「まあ、な」
「背伸びなんてすることはない。疲れたなら、遠慮なく言うといいよ」
 同じ時を生きる幸せ。
 同じ場所を踏みしめることのできる喜びは、測り知れない。
「お前もな、桔梗」


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(2016.05.21)

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