Catch me in the rain


 彼と会うのは、いつぶりのことだろう。
 都会馴れしていない所在なさげな後ろ姿に見覚えがあって、声をかけてみた。険しい表情で振り返ったその顔は、確かに知り合いのもので、彼女を見るなり目を大きく見開く。
「──あかね、なのか?」
 真之介くん、と名を呼ぶと、その顔に途方もない安堵の色が広がった。確かめるように、あかねの手をとり、強く握り締める。
「会えてよかった。あかねがどこに住んでいるかわからんから、このままもう会えずじまいかと思った」
「あたしに会いにきてくれたの?」
 どんな用向きだろうと首を傾げるあかねに、真之介は力強く頷いた。
「おれ、あかねにどうしても言いたいことがあるんだ」
「──あたしに言いたいこと?」
「ああ。絶対に忘れたくないから、覚えているうちに、山を下りて会いにきた」
 真之介の真面目くさった顔が、ぐっと近づく。
 驚いたあかねは反射的に顔を背けた。すると彼が「どうしても言いたいこと」は、はっきりと彼女の耳に聞こえてきた。
 ──学校を出る頃はすっきり晴れていたのに、いつのまにか空が重くかげりを帯びている。顔を上げると頬にぽつりと冷たいものを感じたのは、きっとあの厚い雲から降り出してきた証だろう。
 そういえば、夕方の天気予報は雨だったっけ。
 なのに乱馬は、邪魔になるからと言って、今日も傘を持っていなかった。


 雨が本降りになってきた。
 自分の運の悪さに心底辟易しながら、乱馬は天道道場への帰路をいそぐ。
 おそらく十中八九、あの根性のねじくれた変態校長の嫌がらせだろうが、今年の担任は乱馬にとっては天敵のような教師だった。
 つまらないことでいちいち言いがかりをつけられ、四月から今までに何度、放課後の居残りを強制されたか知れない。
 一年の時の担任、二ノ宮ひな子もなかなかの強者だったが。今年の担任はといえば、腕っ節はからきしのくせに、やけに態度ばかりでかい。乱馬のことを目の敵にしているのがわかる。
 乱馬の性格上、ああもあからさまに敵意を向けられては、黙ってはいられない。
「あんの野郎、いつか一泡吹かせてやる!」
 今日は「教師に歯向かった罰」とやらで、学校中のトイレ清掃を命じられた。あの勝ち誇った顔を思い出しては、むかっ腹がたってしょうがない。
 これならまだひな子の方が数百倍可愛げがあっただろう。相手の闘気を根こそぎ奪いとるなどというはた迷惑な技の使い手ではあったが、あれよりも今の担任はずっとたちが悪い。
 おかげで今日も、一人で帰るはめになった。
「ちっくしょー。何のために、傘を置いてきたと思ってやがるんでい」
 アスファルトが毛羽立つほどの雨。赤いチャイナ服が雨水を吸って肌に重くまとわりついてくる。
 朝の天気予報を見ていなかったわけではない。
 夕方から雨が降ることはわかっていた。
 なのに、傘を持たなかった。
 許婚が持っていくことを知っていたから、あえて家に忘れてきたのだ。
 誰にともなく、乱馬は言い訳めいたことを口にする。
「べ、べつに、あいつと相合傘がしたかったわけじゃねえけど……」
「何、ひとりでブツブツ喋ってるの?」
「ひいっ!」
 今まさに乱馬が脳裏に思い描いていた張本人が、フェンスの下にいた。
 傘のかげから、いかにも胡散臭いものを見るような目をして、乱馬を見上げている。
「な、なんでい、あかねか。驚かすなよ」
「なんでい、あかねか、じゃないわよ。せっかくこれ、持ってきてあげたのに」
 唇をとがらせながら、乱馬が今朝、家に置いてきた傘を差し出してくる。
 ──先程までの憂鬱な気分はどこへやら。
 少年は目を輝かせて、許婚の目の前に降り立った。
「家帰ってから、わざわざ届けに来てくれたのかよ」
「……かすみおねえちゃんに言われて、仕方なく来てやったのよ」
 あかねの頬が赤らむ。
 姉に言われなくとも、彼女なら届けに来てくれたはずだ。この表情を見ればわかる。雨に濡れて乱馬が風邪を引くことを心配して、家に着くやすぐに通学路を折り返してきたのだろう。
 状況が逆なら自分も同じ反応をするだろうな、とにやにやしながら乱馬は思う。
 素直じゃないところは似た者同士。まるで、鏡を見ているようだ。
「悪いな、あかね。ちょうど降り出してきて、困ってたところだぜ」
「もう。だから傘、持ちなさいって言ったのに」
「……だってよー。おれが持ってても、邪魔になるだけじゃねえか」
 乱馬は自分の傘を開いて、ちらりとあかねを見下ろす。彼の視線を感じたのだろう。傘をななめに少し傾けて、あかねが上目遣いに見つめ返してくる。
 生来、嘘をつくことが苦手な彼には、それ以上本音を隠し通すことはできなかった。
「おめーと、相合──」
 声が上擦ってしまった。こほんと空咳でごまかして、やり直す。
「あかねは、傘、持ってただろ?」
「そうね」
「なら、おれはいらねえ」
「は?」
「だから、その──。おれとおまえ、傘はひとつで十分だと思ったんでいっ!」
 あかねがきょとんと目を丸めている。
 口で言ってわからないのなら、行動で示すしかない。
 あかねの手から傘を奪い取って、閉じてしまう。彼女が雨に濡れないように、すばやくその肩を抱いて、傘の中へ閉じ込めた。
 しばらくそうしていてようやく、乱馬は自分の服が濡れていたことに気づくが、あかねは胸に抱かれていても嫌がるそぶりを見せない。むしろ両手を彼の背中にまわして、力をこめて抱き締め返してきた。
「……まわりくどいのよ」
 ぽつりとつぶやく彼女。
 その耳が、のぼせたように赤い。
 乱馬とて顔から火を噴きそうになっている。
 お互いに顔が見えていなくて、よかった。
「あたしと相合傘がしたかったって、最初から素直に言えばいいじゃない」
 乱馬はあかねの髪に鼻をうずめる。嗅ぎ慣れたシャンプーの甘い香りに、今日はしっとりと雨の匂いがまじっている。
 最初から言えたなら、苦労はしない。
「男ってのはな。案外ナイーブな生き物なんだぜ、あかね」

 手をつないでほつほつと帰路につく。
 雨脚は強まるばかりで、とどまるところを知らない。
 道端に咲き並ぶ色鮮やかな紫陽花は、雨に打たれてみな重たげに頭を垂れている。
 ──途中、あかねが強く彼の手を握り返してきた。
「なんだよ?」
「あのね、乱馬」
 視線がかち合う。
「あたし、プロポーズされたわ」
 前から来る車のヘッドライトが、通り過ぎざまにあかねの顔をまぶしく照らしつけていく。
 あかねの表情は、落ち着きはらっているように見えた。
「流幻沢の真之介くん、憶えてるでしょ。さっき、帰り道で偶然会ったの。向こうはあたしに会いに来てくれたみたいだったけど」
「……あいつにプロポーズされたのか?」
「うん」
「なんて、言われた?」
「──『嫁に来てほしい』って」
 もう一度、雨道を歩き出す。
 けれど二人の足並みがそろわず、またすぐに立ち止まるはめになった。
「おじいさんが、孫の顔が見たいって。病気でもうあまり長くないみたいで。真之介くん、早く結婚しておじいさんを安心させてあげたいんだって」
 そう言って、あかねはまた歩き出そうとする。
 一歩先に踏み出した彼女を、たまらず乱馬が後ろから、抱きすくめた。
 つかまえていないと、遠くに行ってしまいそうで空恐ろしい。
 捨てられた傘が水溜まりの上を転げていく。
「それで、あかねはなんて、返事したんだ?」
 ──ごめんなさい。
 それは雨音に掻き消えるような、か細い声ではなかった。
 きっぱりとした謝罪は、彼女の揺るぎない心の表れ。
「あたしにはもう、先客がいるからって。──真之介くん、あれで納得してくれたかなあ」
 乱馬の肩から力が抜ける。
 もし万が一、謝罪の相手が自分だったら──と。一瞬でも恐れてしまった意気地のなさを、恥じてしまいそうだ。
 ──あかねは、他の誰のものにもならない。
 あかねの心には、迷いがない。
 とんだ取り越し苦労だったようだ。
 安堵のあまり、乱馬は思わず笑ってしまう。
「なあ。その『先客』ってのは、誰のことだよ?」
「しらじらしいわね」
 許婚がいたずらっぽく目を細めた。
「あたしのこと、こうやって雨の中でつかまえて離そうとしない、『誰かさん』じゃないの?」
 好戦的なまなざしだ。乱馬の戦闘意欲を煽る目。
 この相手にだけは、いつまで経っても勝てる気がしないけれど。
 人生でひとつくらいなら、負け戦も悪くないかもしれない。
「ぶわーか。おまえがその『誰かさん』から、離れようとしねえんだろ」
「違うわよ。『誰かさん』が、あたしを離そうとしないんだから」
 あかねは笑う。乱馬の心をくすぐってやまない、屈託のない顔をして。
「だからあたし、いつまでもその人のそばにいたい、と思うのよ」





2016.05.27 Ranma × Akane Anniversary

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