雨 | ナノ



 曇天を仰ぐりんねの瞳は虚ろだった。中身のない木偶のような状態で佇む彼の横顔を、すぐそばに立つ桜は哀しく見つめている。
「……ここのところ、ずっと嫌な予感がしていたんだ」
 耳を澄ませなければ聞こえないほどの声で彼は言う。
「お前の側を離れてはいけなかったのに……」
 深い哀惜と苦悩に満ちた声に、返す言葉が見つからない桜は憂いを帯びた視線を足元へと落とす。
 そこには人間だったものが転がっている。魂を失った抜殻は信号無視の乗用車に轢き殺された少女のものだった。細身の身体の至るところに痛々しい損傷が刻まれ、青い制服には湿り気を帯びた土の汚れが滲んでいる。
 永劫に続く「無」がそこに横たわっていた。
 ──私、本当に死んだのね。
 桜は心の中で茫然と独白した。
 彼と彼女とその屍体を中心として、周りに次々と人が集まってくる。サイレンの音が辺りに響いている。救急車はまだなのか、という叫び声、まだ若いのに可哀相に、という涙声、だれかに向けられた複数人の怒声と罵声が轟き渡る。
 二人にとって、その全てが現実味を欠いていた。しかしその全てが確かに目の前で繰り広げられている現実だった。
「誰のせいでもないよ。……きっとこれが私の運命だったんだと思う」
 自分の屍体を見下ろしながら、桜は落ち着き払った声色で言った。びくっとりんねの肩が揺れる。
 起きてしまったことを嘆いていても時間は巻き戻せない。乗用車の運転手を呪おうが自らの不運に涙しようが何も変わりはしない。取り乱しても無意味なことだと桜は知っていた。こんなにも早くに人生の終焉を迎えてしまったことに空虚を感じながらも。
「お前……それで、いいのか」
 道路に横たわった屍体を目にすることが怖ろしいのだろう、曇天を見上げたままりんねは訊いた。大鎌を持つ手は力を籠めるあまり蒼白だった。
「真宮桜、俺は運命だなんて言葉では、とてもやりきれない……お前を轢き殺した奴が憎い」
 息を呑む桜を彼は暗い衝動に満ちた瞳で見つめ返す。
「……絶対に許さない。出来ることなら八つ裂きにして地獄へ送ってやりたい。未来永劫転生できないように」
 戦慄の面持ちの彼女は首を何度も横に振った。
「やめて。私のせいで六道くんがそんなことをするなんて、絶対に嫌」
 眦に涙すら浮かべて桜は懇願した。
「私は大人しくあの世に行くから。三途の川も一人で渡るから。未練なんて残さないでちゃんと輪廻の輪に乗るよ。だから六道くん、お願いだから私のせいで手を汚したりしないで……」
 言葉を失った彼は唇を噛んで深く俯く。
 救急隊員たちが人混みを掻き分けて円の中心に躍り出た。事切れた身体をみとめてみな一様に、あきらめの表情を浮かべる。たまらずに一人が合掌すると、それが伝染したように周囲の人々が倣った。担架に乗せられ運ばれていくからだをりんねは見ようとしない。
「──どこにも行かせない」
 低い声が桜の耳元を過ぎった。りんねの目は切実だった。握り締めていた鎌を捨てて、彼は桜の半透明の手を強く握る。
「六道…くん?」
「あの世にも三途の川にも輪廻の輪にも行かせない。……俺はお前を離さない」
 静かな声だった。
 曇天からは冷たい雨が降り始めた。幽体化した彼と幽霊の彼女は雨には濡れない。涙のように落ちて地を打つ雨音が哀しく響く。
 ──遣らずの雨だ。行かせたくない人を引き留める雨。
 桜は虚を突かれた表情をしている。何を言われたか理解に苦しんでいた。真面目な死神であるこのひとがそんな道の外れたことを言うなど嘘に決まっている。
「……一緒に逃げよう、真宮桜」
 りんねは茫然としている桜の耳元に囁いた。黄泉の羽織に強ばったからだを招じ入れ、片腕でしっかりと抱く。言わなければいけないことがあるはずなのに、彼女は結局なにも言えず、抵抗一つしなかった。
 忍び寄る死神の跫音が彼の耳に届く。輪廻転生のことわりにもとづき、死神が彼女を訪れようとしている。
 それを振り切るように、りんねは雨に打たれた地を蹴って、空へ飛び上がった。
 逃げ切ってみせる、どこまでも。緊張のせいか身じろぎ一つしない身体を抱き締めながら、彼は胸の裡で決意を固めた。
 冷たい雨が外れた道を行こうとする彼を引き留めるかのようにも思えた。けれど手離す気など毛頭ない。
 もう引き返せないんだ──と、彼は瞳を固く瞑った。





end. 

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