煙月
見知らぬ男が、龍の少年の部屋にいた。
細く開けた窓からわずかに差し込む月光が、男の後ろ姿を浮き彫りにしている。
──明らかに少年ではない。背がすらりと高く、女性のように線の細い青年だ。
照明を落とした薄暗い寝室の中、青年はゆったりと寛いでいる。肘かけに体重を預けているようで、身体はやや斜【はす】に傾いている。人様の居室で読書でもしているのか、あるいは暢気に転寝しているのか。
それにしても、この部屋はどこか煙たい。
好奇心に駆られた千尋は、もっとよく青年を見ようとして、うっかり物音を立ててしまった。
「誰だ」
青年が振り返る。
驚いた千尋は、運んできた盆を危うく落としてしまいそうになる。
明かりが乏しくて、目を凝らしてもその顔がよく見えない。
だが相手の方は、夜目が利くようだった。
「──ああ、そなただったのか。どうりで入ってこられたわけだ」
刺すような声とは打って変わり、和らいだ調子でつぶやく。
話の分かりそうな相手だ。勇気を振り絞って、千尋はたずねてみた。
「あの、あなたは誰ですか?──もしかして、お客様ですか?」
「お客様?」
青年がきょとんとした顔をしたのも知らず、早合点した千尋は深々と頭を下げる。
「ごめんなさい。ここ、帳場役のハクっていう人の部屋なんです。もしお部屋をおまちがえなら、わたしが案内しましょうか?」
くす、と青年が吐息をこぼして笑った。
「私は客ではないよ。それに、部屋をまちがえてもいない」
「えっ?」
「傍においで」
手招きしているように見える。さすがに躊躇する千尋だが、相手はふふ、と優雅に笑うばかりだ。
「おいで。そなたにだけ、私の秘密を教えてあげるから」
おそるおそる、盆を置いた千尋は四つん這いで畳の上の青年に近づいていく。
薄明りを背に受けて、青年の輪郭が際立った。長煙管を指でささえ、もう片方の手で頬杖をついて千尋を観察している。
やけにこの部屋が煙たく感じられたのは、その煙管のせいだったのか。
「もっと近くにおいで」
磨り膝でもう少しだけ、距離を縮めた。
彼が煙管の先で、千尋の顎をそっと持ち上げる。
「私が誰か、もう判るね?」
至近距離では見間違えようがなかった。白皙の青年は、そのかんばせに見馴れた少年の面影を確かに残している。
「どうして──?」
「この姿のほうが、これを吸いやすいからね。子どものままだと噎せるんだ」
煙管をかかげて見せる彼。着崩した夜着から胸元がはだけているのが目に留まり、千尋はあわてて目をそらした。
「ハクって、そういうの吸うんだ……」
「うん。退屈しのぎに、時々」
ハクって本当はいくつなの、と訊きかけて千尋は口をつぐんだ。
彼は川の主、龍神なのだ。
知りたいような、けれど知るのが怖いような。
「千尋、なぜ俯いているの?もっとよく顔を見せておくれ」
大きな手のひらが千尋の頬を包み込む。疲れているね、と彼女の目の下の隈をいたわり、優しく頭を撫でた。
千尋の頬がほんのりと赤らむ。
子どものままでも、大人になっても、龍神は美しかった。
その心も、外面も、すべて。
千尋にはきっと、背伸びしたって到底追いつけない。
「宿場は人が多くてよく寝付けないだろう?今日はここで休んでいくといいよ」
「ううん、いいの。わたし、ちゃんと部屋で寝るから」
子どもじみた腹かけ姿を見られたくない。──子ども扱いも、いやだ。
そんな複雑な乙女心など知る由もなく、聞き分けのいいハクは千尋から手を放す。
「そう。では、おやすみ、千尋」
「おやすみなさい、ハク。いい夢を見てね」
ここは昼と夜とが逆さになった世界。
夜明けが来れば、働き疲れた千尋は深い眠りに落ちるだろう。
どれほど名残惜しくとも、引き留めておくことはできない。
あの子はまだ、ほんの子どもだ。
「──いい夢を、見ているだろうか?」
火鉢にのせておいた吸いさしの煙管を、再び手に取る。
愛しい娘に触れた手では、煙管など手慰みにさえならないが。
「早く夢から醒めておくれ、千尋」
彼は夢など見ない。
月を沈めて日が昇り、それが次第に傾きだす頃──。
くゆらせた煙の向こうから、再び彼女が会いにくるのを待つばかりだ。
【※】 ←こちらの素敵ハクに触発されて。 2016.05.25