河伯

 八百万の神々が集う湯屋「油屋」には、時としてたいそう高名な神がお忍びで訪ねてくるという。
 とはいえ一介の小湯女にとっては、神の名をもつ訪問者であれば誰しもみな大事な「お客様」である。一目見たくらいでは、名のある神か否かなど、よくわからないものだ。
 その日、配膳係を割り当てられた千尋は配膳所と座敷とをせわしなく行き来していた。
 すべりこみで昇降機に乗ったはいいが、御膳を欲張って重ねすぎたことがたたってレバーがひけず、どうしたものかと困っていた時のこと。
「私もよいかな?」
 油屋印の浴衣と羽織を着た湯上がり客が入ってきた。ちょうどよかったと、胸をなで下ろす。
「すみませんが、レバーをお願いできますか?」
「うん?ああ、これを引けばよいのだな」
 客はこころよく応じてくれた。
 レバーが引かれると、昇降機の扉が閉まった。手ぬぐいで髪を拭きながら、客が気さくに話しかけてくる。
「こちらの蓬湯は格別だな。いや、どの湯も実に心地よい」
「そうでしたか。お気に召したようで何よりです」
 昇降機の揺れに負けじと膳の均衡を保とうとする千尋を、客はじっと見つめている。
「娘、そなたは確か『千』とか呼ばれておったな。私は二天まで上がるが、千はどこで降りる?」
 わたしは三天まで、と答えかけたところで昇降機が止まった。乗ってきたのは、帳場役のハクだ。千尋が先客として乗っていたことにやや驚いたようで、丸めた目を細めて笑いかけてくる。千尋が笑い返すと、隣の客に向き直って会釈した。
「カハク様もご一緒でしたか」
「帳場のハクだな。どこへ向かうところだ?」
「ちょうど、お座敷へ伺うところでした。おもてなしを仰せつかりましたので」
「そうか。では一つ頼みがある。この娘、私の座敷へ上げてはくれまいか?」
 一瞬ハクが難色を示したように、端から見ている千尋の目には映った。だが千尋が違和感を覚えるよりも先に、ハクは軽く頭を下げて「かしこまりました」と返事をしていた。
 千尋は最上階の二つ下の三天で、ハクとカハクという客はその上の二天で降りた。用事を済ませたら来るように言いつけられたので、千尋はほかの座敷に食事を届けてから、ハクとカハクの待つ座敷へ上がる。
 カハクは娘をかわいがる父親のような親しさで、上機嫌に手招きしてきた。
「こちらへおいで。今、ハクからそなたのことを聞いていたのだ」
 千尋はカハクのそばで居住まいを正しているハクをちらりと流し見る。普段帳場にいることの多いハクがじきじきに座敷へ出向いてもてなしていることから、どうやらカハクはかなりの上客らしいことが窺えた。あてがわれている部屋、調度、料理や酒肴に至るまで、油屋でもっとも格調高いものばかりが選り抜かれている。
「人間がこの湯屋にいるとは驚いたものだ。だが私も遠い昔は、千、そなたと同じ人間だったのだよ」
 酒を嗜みながらカハクが千尋を眺めている。千尋は驚きを隠せなかった。
「人間が神様になれるのですか?」
「なれるとも。もっとも、なりたくてなったわけではないが」
 カハクがからからと笑う。
 ハクはカハクを慎重に観察しつつ、千尋に耳打ちした。
「海を越えた先の大陸に、大きな川が流れている。こちらの『河伯』様は、その川を統べる神様だよ」
「川の神様?」
 ハクと同じだ。千尋は目を輝かせた。見ず知らずの客だが、親近感が湧いてしまう。
 水神に突然片方の手首をつかまれても、別段恐れを感じることもなく、にこりと笑っていた。
「カハク様、お酒のお代わりをお持ちしましょうか?」
「いや、酒はもうよい。──それよりも今は、食事がしたい気分だ」
 カハクの薄い唇から長い舌がのぞいた。驚いて固まる千尋の頬を、味見するように、ちろりと舐める。
 ハクの目つきが変わった。カハクと千尋のあいだに手を差し出して、それ以上近付けぬよう牽制する。
「カハク様、この娘はいけません」
「おかしなことを言う。神が生贄を喰ろうて何が悪い?」
「この娘は生贄などではありません」
「だが私は『これ』が気に入ったのだ。これを喰らえば、向こう百年は満たされるであろう」
 カハクが手首を離さない。恰好の餌を手にした喜びがその笑顔からありありと感じられる。事態を思い知った千尋は、恐怖に青ざめた。
「我が川はまこと荒々しい。腹が減れば贄を求めて大洪水を起こす。さすれば数多の人間を黄泉へ送ることになろうぞ。それでもそなたは、たかが小娘一匹の命を惜しむというのか?」
 ハクの答えには迷いがなかった。
「千を渡すことはできません」
「そなたの雇い主は、喜んで差し出すであろうがな」
「悪食もほどほどになさいませ、カハク様」
 ハクにしては珍しく毒のある物言いだった。カハクは興をそがれたらしく、つまらなそうに千尋の手首を解放してやる。
「悪食とは随分な言われよう。そなたも水神の端くれであろうに、人を喰ろうたことはないのか?」
 ハクは首を横に振る。
「私の川は小さかった。生贄をとらずとも、充分に満たされていました」
 千尋がさりげなく距離を置こうとしているのを察して、カハクは今度はその足首をつかんだ。情けない声を上げて引きずり寄せられる千尋。
「やはり惜しいな。肉付きは貧相だが、なんともうまそうな匂いがするのだ。足の指一本でよいから、喰わせてはくれぬか?千」
 水神はその端整な顔に清らかな微笑みを浮かべているものの、口の端からはよだれが垂れている。今にも千尋の足の指に噛みついてきそうだ。
 千尋がおののくのを、カハクは楽しんでいるようだった。おもしろい玩具を見つけた腕白小僧の顔だ。がちがち、と噛む真似をして千尋を震え上がらせてみたりする。
「──お戯れが過ぎれば、千を下がらせることになりますが?」
 見かねた帳場役が諌めれば、客は唇をとがらせながらもようやく「玩具」を手放した。

 千尋とハクに平和が戻ってきた。六日におよぶ滞在を終え、カハクが油屋を発ったのだ。
「生きた心地がしなかったよ……」
 餌にされるのでは、と終始びくびくしていた千尋は今になって気疲れに見舞われている。
 世にも長い六日だった、とハクも珍しく疲労をにじませていた。
「ハクがいなかったら、わたし、とっくにカハク様に食べられちゃってたね」
「あんなにしつこい方だったとは、私も知らなかったよ」
 お代をたっぷりとはずんでくれた気前のいいお客様。がめつい湯婆婆や脳天気な油屋の従業員達は知らないだろう、その客のせいで、ハクと千尋がどれだけ神経をすり減らしたかを。
「こんな歯形までつけられてしまって、可哀想に──」
 千尋の右手小指の付け根には、カハクがかじりついた痕が残っていた。ハクがどれだけ気をつけていても、目の届く範囲には限界があったのだ。
 釜爺からもらった軟膏を患部に塗ってやっていたハクは、ふと思い立って、千尋の首筋あたりに鼻を近づけてみる。
「ハク?」
「カハク様は、千尋から『おいしそうな匂いがする』と言っていたから。どんな匂いだろうと思って」
「──それ、言われても全然嬉しくない」
 そうだね、とハクは頷く。
「生贄なんて、穏やかじゃない」
「でも、昔はよくあったんだよね?」
「うん。百年くらい前までは、私の川にも人身御供が連れてこられることがあったよ。日照りが続く年なんかは特にね」
「ハクの川にも?」
 ハクは千尋の手に包帯を巻いてやる。
「川の神も様々だよ。カハク様のように生贄を食べてしまう神もいれば、若い娘であれば妻にしたり、眷族にして従えたり、私のようにまったく手をつけずに帰してしまう神もいる」
「──ねえ、ハクはわたしのこと、おいしそうだと思う?」
 千尋は自分の匂いを気にしているようだった。
 ハクは話に聞いただけだが、千尋は以前も、カオナシという異形に喰われそうになったことがある。自分に人外の食欲をそそる何かがあるのでは──と不安に思うのも無理からぬことだった。
 包帯を巻き終えたハクは、千尋の手を自分の両手で包み込む。傷の治りを早めるまじないだ。
「千尋を食べてしまっては、こうして千尋と向き合って話をすることもできなくなる。千尋でお腹が満たされても、千尋をなくした心はいつまでも空のままだ。だから私は、そなたがどんなにおいしくても、そなたを食べてしまおうとは思わないよ」
 千尋は少し不安が晴れたようだった。ハクに手当ての礼をして、生き生きとした顔で持ち場に戻っていく。
 その後ろ姿を、ハクは見えなくなるまで見送った。
「小指どころか、髪の毛の一本さえ、──誰にもくれてやるものか」




2016.05.05

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