夕さりつ方


 差し入れの安道奈津を食していると、何故か其の味がたまらなく懐かしく、娘は堰切ったように涙が止まらなくなった。
「さ、咲さん、どうしはったんですか?」
 午後の診察が一段落し、共に小休憩をとっていた佐分利が目を剥いている。食いかけの安道奈津をうっかり床に落としたことすら気づいてはいまい。
「何でも御座いません。何でも──」
 言うなり咲は手の甲で涙を拭い外へ飛び出した。
 ふと振り返り、門に掲げてある「仁友堂」の看板を見上げれば心は一層掻き乱される。口の中には未だあの優しげな甘味が残っている。
 ──安道奈津。
 今や此処江戸の、否、東京の名物とも云うべきこの菓子は、単なる食い物などではない。仁友堂が世に送り出した、歴とした脚気予防の特効薬である。
「この味をわたくしに教えてくださったのは──」
 仁友堂の皆が口を揃えて云う。安道奈津を編み出したのは、他ならぬ咲であったと。
 されど咲はおぼろげながら其れは間違いであると気付いている。己は誰かが考案した「道奈津」なる薬に、ふと小豆餡をのせてみようかと思い立ったに過ぎぬのだ。
 暫くそうして門前に立ち尽くして居ると、やはり、看板の文字が矢鱈心に引っかかる。
「仁友堂。この医院をそう名付けたのは──」
 咲は「仁」の一文字を食い入るように見つめる。忘れかけていた、忘れてはならぬことが、あるような気がしてならない。
「わたくしでも、先生方でも、医学所や医学館の皆様でもなく──」
 かつて緑膿菌なる病に侵された腕が疼いた。兄・恭太郎が持ち帰った奇怪なる薬、ホスミシンによって完治した病。先生方すら存じ上げぬ其の薬の名を、何故己は知っていたのだろう。其れが必ずや命を救ってくれると、何故信じることが出来たのだろう。
 ──咲さん。
 すぐ傍で、呼び掛けられたような気がした。
 空耳などではない。咲は其の声を知っていた。涙が溢れるほど懐かしい声の主。もう顔も名前も思い出せぬ、遥かな時の彼方へと押し流されていった、今は唯一人の小娘の心許ない記憶にのみ存在する、かの「先生」。
「わたくしとしたことが、また、先生のことを忘れてしまうところでした」
 歴史の「修正力」なる言葉が咲の脳裏に浮かぶ。おそらくこれも、人知を越えた何らかの力による所業なのであろう。「先生」と呼ばれた男は、この時代には存在しえぬ者だった。ゆえに「時」は、かつてかの「先生」が江戸の地で生きた証を、悉く押し流そうとする。
 何の力も持たぬ小娘が、大いなる時の意志にあらがおうとするなど、愚の骨頂というより他はあるまい。
 意地を張ったところで、いずれはこの戦に負け、すべてを忘れてしまうのやもしれぬ。
「この涙のわけさえも、やがて解らなくなるので御座いましょうか。──いえ、杞憂はやめましょう」
 お慕い申し上げておりました、と。生まれて初めての恋文に胸の内をしたためた。明日の其のまた明日の明日、橘咲という人間の一生を使い果たそうと到底辿り着けぬ、遠き未来を生きるその人に。
「負け戦と解っていながら、わたくしは諦めがつかぬのですよ、先生」
 共に歩いた辻を駆け、共に寄り道した下町を抜け、共に登った山の高みに至れば、「先生」と共に見た江戸の町並みが目の前に悠然とひろがる。
 ──時は、あの「先生」がこの町に残した痕跡を、完全に消し去ることはできない。
 安道奈津に仁友堂、ホスミシン、ペニシリン、揚げ出し豆腐、橘咲の手紙、橘咲の記憶の中。
 目に見えようと見えまいと、かつて江戸と呼ばれたこの町の至る所に、あの「先生」の痕跡は刻まれている。
 時代が明治に移ろうとも、江戸が東京と呼ばれようとも、咲だけが変わらず憶えている。そうありたいと、願っている。
 変わりゆく町並みを、変わらず朱に染め上げる黄昏に思い馳せながら。
「先生も其方で御覧になっていますか。──此方の夕日は、今日もこのように美しゅう御座います」




2016.04.27
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