朧月夜
朧月夜



 バルコニーの柵に手をついて、昼とも夜ともわからない薄明かりの空を見上げながら、彼の女主人がふとこぼした。
「ねえ、朧。今日、現世は朧月夜みたいね」
 一歩下がったところで、黒猫は欠伸をかみ殺している。今日もばあやに散々こき使われたおかげでくたくただ。
「鳳さま。用がないなら、おれはもう寝るぜ」
「もう。あんたって子は、どうしようもなくにぶいのね!」
 わけもわからず突っかかられて、むっとした。
「なんだよ。用があるならはっきり言え」
 ネグリジェ姿の鳳が盛大な溜息をつく。その皺ひとつない寝間着を用意してやったのは、朧だ。
 誰よりも側にいて、誰よりも長く見てきた。
 鳳のことなら、だいたいのことは手に取るようにわかる。
 眉間にしわをよせて、赤い唇を引き結ぶ鳳。それが、思い通りにいかないことがあり、機嫌を損ねたときの表情だということも。
 いったい自分がどんな粗相をやらかしたというのか。
「忘れたの?ーー朧、今日はあんたの誕生日じゃない」
「え」
 身構えていただけに、つい拍子抜けしてしまった。まじまじとその顔を見つめ、オウム返しに聞き返す。
「ーー今日はおれの誕生日?」
「そうよ。朧月がきれいな春の夜に生まれた黒猫だから、おまえは『朧』なんでしょ?」
 よほど間抜けな顔をしていたのだろう。むつけていた鳳が、ころりと表情を変えて笑い出すほどに。
「な、なにがおかしいんだよ、鳳さま!」
「だって……。あんた、私の誕生日は一度も忘れたことないのに、自分のはすっかり忘れてるんだもん!」
 当然だ、と朧は思う。彼の日常は鳳を中心にまわっている。自分のことなど二の次だ。
「わがままお嬢様の誕生日を忘れた日には、散々な目に遭うだろうからな。忘れるわけねーだろうが」
「まったく。相変わらずかわいげがないわね、あんたは」
 憎まれ口をたたきながらも、鳳の声には親しみがありありと込められている。朧にとっては、ややこそばゆい。
「朧。ちょっと目、閉じなさい」
「なんでだよ」
「いいから!」
 言われたとおりにした。
「これでいいんだろ」
「ちょっと、まだ開けないでよ?」
「わかった、わかった」
「いいって言うまでは、ちゃんと閉じてなきゃだめなんだから!」
「しつこいな、わかったっつーの!」
 ガサガサ、ビリビリ、と何やら雑な物音が聞こえた。朧はどうも落ち着かない。お嬢様は何をしているのか。つい薄目を開けてたしかめたい衝動に駆られるが、妙なところで律儀な彼らしく、命じられたままでいる。
「もういいわよ」
 ようやく許しを得て、待ちきれずにぱっと目を開ける。ひらけた視界に真っ先に飛び込んできたのは、鳳の屈託のない笑顔だった。
 朧の胸に温かいものがひろがっていく。
 彼女からの贈り物は、戦闘用の鉄の爪だった。前々から、朧がほしがっていた黒猫用の武器だ。
「誕生日おめでとう、朧。ーーあんたは、口は悪いし、いつも生意気で、どうも鼻持ちならないしもべだけど、まあまあ優秀な黒猫だと思うわ」
 一言も二言も多いんだよ、といつもの朧なら言い返しただろう。けれど今は腹を立てることもない。最愛のお嬢様が誕生日を憶えていてくれたーー。その喜びははかり知れず、今なら何を言われても笑って受け流せそうだ。
「これからも、その爪で私のことを守りなさいよ。あんたのこと、これでも結構頼りにしてるんだから」
 鉄の爪はずしりと重く、手にはめてみるとまだ振り上げることも難儀するほどだ。馴れるまでにはしばらく時間がかかりそうだった。
 だが、必ず使いこなしてみせよう。
 主を守るためにあたえられたこの爪を。
「ふん、しょうがねえ。あんたみたいなそそっかしくて危なっかしい死神を守ってやるからには、おれも日々修業だな」
「そそっかしいは余計よ!」
 鳳が言葉とは裏腹ににっこりしながら、いい子いい子とばかりに頭を撫でてきた。相変わらずの年下扱いはやや癪にさわるが、今日くらいはまあいいだろう。
 彼女とは、単なる紙上の契約を越えた強い結びつきで繋がっている。
 生まれる前に定められた主人。幼い頃からともに育ち、信頼関係を築いてきた。物心ついた時にはもう、生涯をかけて付き従い守りぬくと誓った存在。
 死神鳳。
 気まぐれな月が彼女だとすれば、それを守るかのように、おぼろげにかかる雲は彼だ。
「朧、今日は久しぶりに一緒に寝ようか」
「え」
「嫌なの?」
 手を引かれ、夜風の冷たくなってきたバルコニーを離れて彼女の部屋に戻る。天蓋つきのとびきり寝心地のいいベッドで、なめらかなシルクのリネンに包まれながら、小さいころはよく鳳の抱き枕になって眠ったものだ。
 ひとりじゃ怖くて眠れない、と毎夜ぐずっていた鳳も、いまはもう中学生。朧自身も成長期にあり、二人ではいると、大きいはずの鳳のベッドは昔よりもずっと狭く感じられた。
 抱き枕やぬいぐるみにするにはもう朧は育ちすぎている。さすがに昔のように抱き締められることはない。かわりに、鉄の爪をはずした手を握られた。
「手はまだ昔のままなのね。ふにふにしてて、かわいい」
 ーーかわいい。鳳はよく、そう言っておさない朧に頬を擦り寄せたものだ。
 そして今も、例にもれずあずけた猫の手に頬擦りされ、朧は思わず顔を赤くする。
「かわいいなんて言われて、喜ぶ年頃じゃねえよ……」
 かっこいいとか、腕っぷしが強いとか、もっと今の彼に相応しい言葉があるだろうに。鳳が抱く朧の印象は、いつまで経ってもそう変わらないらしい。
「かわいい朧。おまえは私の大切な相棒よ……」
 うわごとのようにそう囁いたきり、鳳はしだいにまどろみにおちていった。
 朧はどうにも心落ち着かず、眠るに眠れぬまま、目の前にある主人の寝顔を見つめる。
 ーー大切な相棒。
 黒猫にとって、それ以上の喜びがあるだろうか。主と決めた死神と契約を結び、心を尽くして仕える、ただそれだけのために黒猫は生まれてくるのだ。
「おやすみ、鳳さま」
 あずけた手を引き抜くこともできず、もう片方の手でブランケットを肩まで引き上げてやる。
 黒猫はみな、こういう感情を抱くものなのだろうか。
 主の安らかな寝顔に心くすぐられ、守ってやりたいと思うものなのだろうか。ほうってはおけないと、目の届くところにいてほしいと思い、側にいようとするものなのだろうかーー。
 あなたは知らないだろう、けれど。
「おれって、案外過保護なんだぜ。鳳さま」
 明日の朝は早起きしよう。
 お嬢様お気に入りのティーカップにあたたかい紅茶を用意して。庭園で摘んだばかりの花を添えてみるのだ。
 たまには気のきく黒猫の真似事をしてみるのも、悪くはないだろう。




2016.04.09
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