3月9日



 彼はまだ蕾さえつけていない桜の木を見上げていた。
 中庭の梅は今まさにたけなわで、証書の筒をもった卒業生達がその下でこぞって写真を撮っている。誰も痩せたままの桜の木には目をくれない。来月の入学式にはこちらが花形となるだろうが、今はまだのんびりとその時に向けて春支度をしている最中だ。
 彼だけが、喧噪から離れてその木を眺めていた。後ろ姿からは何を考えているのか推し量ることはできない。ただ、自分と同じ名をもつ木を飽きもせずみつめるその姿に、彼女の心はやや揺れている。
 声をかけて振り向いてもらいたい、と思う反面、このまま後ろ姿を見ていたい気もした。
 もうこの見慣れた校舎で彼と会うことはないだろうから。
 ーーそうか。私、卒業したんだ。
 壇上で証書を受け取った時や、親友のミホとリカに泣きつかれた時でさえ、実感が湧かずにいたはずなのに、今になって唐突にそのことが真に迫ってくる。
 卒業するということは、彼と会えなくなるということ。三界高校に通う生徒としての、二人の繋がりが切れるということ。
 小雪がちらほらと舞う。気配に気づいたりんねが振り返る。桜は距離をとることも縮めることもせず、その場に立ちすくんだまま、用意していたことを告げた。
「卒業、おめでとう」
 あまり笑わないりんねが、少しだけ口元を緩めたように桜には思えた。
 旅立ちの門出に普段のジャージ姿では気が引き締まらないだろうと、教員が貸し出してくれた制服を彼は着ている。見慣れない制服姿はよく似合っていた。一年の時よりも背が伸びたようで、最近は並ぶと見上げる時に桜の首が痛くなりそうだ。
 りんねも一定の距離を保ったまま訊いてくる。
「真宮桜のクラスは、もうお開きか?」
「ううん、一度帰ったら夜にまた集まるんだって。卒業祝い。六道くんのクラスは?」
「わからん。教室には戻らなかったんだ。証書をもらってすぐ外に出たから」
「そうなんだ。いいの?クラスメートと別れを惜しまなくて」
 りんねが口を噤んだのをいいことに、桜はほとんど独り言に近い口調で畳みかけていた。
「『ただの元クラスメート』との別れは、惜しんでくれるのかな」
 一瞬の間をあけて、彼は首を横に振った。
 なんだ、名残惜しいのは私だけだったんだーーと落胆する桜に追い打ちをかける一言。
「真宮桜との別れを惜しむつもりは、ない」
 それ以上は聞きたくなかった。思わず耳をふさぎかける桜だったが、続く言葉は意表をつくものだった。
「別れるつもりはないからだ」
 りんねは目を逸らさなかった。
 決して、気休めを言っているわけではないようだ。
「明日からしばらくは死神界にいると思う。前におじいちゃんと暮らしていた借家を、今度は俺が借りるつもりだ。ただ、敷金と礼金がかさむからな、しばらくはおばあちゃんの家で、地道に貯金生活だ」
「しばらくって、どのくらい?」
「そうだなーー」
 りんねはちらりと後ろを振り返り、
「まずは一度、桜が咲く頃に戻ってくる。その時に、また、ここで会ってくれるか?」
 会わないわけがない。
 今からもう、桜の咲く日がこんなにも待ち遠しい。
「卒業してからも会ってくれるんだ。『ただの元クラスメート』なのに」
「『ただの元クラスメート』」
 鸚鵡返しするりんねの声は、やや落ち込んでいるような、不満げなような。
「真宮桜。その呼び方は、もうやめないか?」
「うん、そうだね。やめよう」
 おかしくなって桜は笑ってしまう。二年になってクラスが離れてから、ずっと板についていた呼び方だった。いつかやめたい、と思っていた。
「卒業してからも待ち合わせて会うような相手を、そういうふうには呼ばんだろう」
 じゃあ、どういうふうに呼ぶんだろうね、と。
 訊いてみようかとも思った。けれど気恥ずかしそうに目を泳がせる彼を見たら、もっと困らせたいというよりも、素直にまた会えることを喜びたい気持ちが勝った。
「今度会う時は、一緒にお花見したいね。お弁当、作ってくるよ」
「ーー本当か、真宮桜!」
 そうやって、あなたが喜ぶ顔がみたいから。
 桜が咲くその日を、きっと私は指折り数えて待つでしょう。




2016.03.09
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