花嫁御寮 17: 依頼人 翔真は事務処理に没頭しているはずの若社長を見やった。 書類にじっくりと目を通しているように見えるが、実際はぼんやり物思いに耽っているだけで、まったく仕事が進んでいないことは一目瞭然だ。手に取った書類が逆さになっていることに気づいていないのだから。 いつも通り、不正な死を阻止して現世から帰ってきた、ただそれだけのはずだった。この六年間、それが堕魔死神カンパニー社長に着任した、彼のこなすべき日々の仕事だった。初めのうちこそ悪どいグリムに露見することを恐れただろうが、今はもうすっかり馴れて、時には翔真をひやひやさせるほど大胆に動くこともある。りんねは自分に課した責務を日々、淡々と全うしているように見えた。それなのに、なぜ今日はこのように上の空なのだろう。何か目新しいことがあったのだろうか。 りんねは寡黙で多くを語らない。翔真が観察して感情の機微を汲み取らなければならないことは多々あった。そして、頭の切れる若社長が心ここに在らずの時には、きっと恋わずらいなのだと、いつしか納得するようになった。けれどーー 今日の恋わずらいは、あまりつらくはなさそうだ。 「何にやついてんだよ」 え、とりんねが目を丸める。自覚がなかったらしい。小さく咳払いして、表情を引き締めようとする。 「お前の見間違いだろう、翔真」 「いや、思いっきりにやけてただろ。何かいいことでもあったのか?」 りんねは書類が逆さになっていることにようやく気付いたらしく、さりげなく持ち直した。書類で顔を隠すが、翔真は首をのばして覗き見ようとする。社長と秘書の攻防はしばらく続き、観念したようにりんねが書類をおいて溜息をついた。 「偶然、会ったんだ」 「誰に?」 「ーー彼女に」 合点のいった翔真は、なるほどな、と頷いた。 翔真には、正直恋のことはよくわからない。ただ、初めてりんねに出会ったその時から、彼の側にはいつもあの人間の女子がいたということ、そして離ればなれになった今も、りんねの心の中にはいつも彼女がいるのだということは、確かだった。 「元気だったか?」 りんねは穏やかな顔をして頷いた。彼の心の拠り所が何なのかは、その表情を見れば明らかだった。 「元気そうだった。ほっとした」 「何年も会ってないんだもんな。きれいになってただろ、桜のやつ」 もう一度、彼は頷いた。恥ずかしげもなく素直なものだ。 りんねは袖の袂から小瓶を取り出して机の上に置く。それは彼が桜の花から作った水薬で、よく眠れない時に使うものだった。 翔真は窓を開け、窓枠に座った。太陽が昇ることも月が沈むこともないあの世の空に、赤い輪廻の輪は我が物顔で浮かんでいる。現世はまだ夜明け前だろうか。堕魔死神カンパニーは数少ない社員が出払って閑散としている。悪い死神が暗躍するのは、人間達が寝静まった夜。もっとも彼らが不当に狩った魂は、りんねと翔真が裏でひそかに救済するわけなのだが。 「りんね、今日はもう休んでもいいんじゃねーの」 事務処理が終わった頃合いを見計らって振り返ると、若社長はすでに机に突っ伏して寝息をたてていた。神経をすり減らす生活の中、なかなか眠れない時期もあったことを知るだけに、翔真はほっと胸を撫で下ろす。 赤の他人でしかないりんねに、自分はなぜこれほど同調しているのか。なぜここまで協力するのか。翔真自身にもよくわからなかった。死神小学校の卒業式はもとより、中学校の入学式にさえ顔を出さなかった。高校には入ってさえいない。家はそれなりの名家で、両親は息子を溺愛している。契約黒猫の黒洲を度々使いによこして、家に帰るよう説得を試みるのだが、翔真はことごとく拒み続けている。 「六道りんね様に協力しなければならない義理など、翔真坊ちゃまにはないではありませんか。堕魔死神の真似事などやめて、早く普通の生活にお戻りになればよろしいのに」 黒洲に裏も表もなく指摘されるたび、その通りだと納得してしまう。だからといってその言葉に従うことは絶対にあり得ないのだが。 りんねは、確かに赤の他人だ。 ただ翔真が、生まれて初めて出会った、まっとうな死神だと感じるだけだ。 目が覚めると、見馴れた自分の部屋にいた。 夢うつつに彼が送ってくれたことを覚えている。眠ってしまったことが今さら惜しまれた。起きていれば、もっと彼と話すことができただろうに。 階段を降りてリビングに入ると、トーストとベーコンのこんがり焼けた匂いがした。父はまだ降りてきていないらしい。桜はキッチンに立つ母の背に近付いた。婚約者の家に引っ越したはずの娘が、突然「おはよう」と肩を叩くものだから、目玉焼きを焼いていた母は仰天してしまう。 「ああ、びっくりした。桜、あなたいつ帰ってたの?」 「昨日の夜だと思う」 「『だと思う』?」 母が小首を傾げるかたわらで、桜は鼻歌混じりに焼き立てのトーストに切ったバターを乗せた。 「ママの朝ごはん、なんだか久しぶり。わくわくする」 「何言ってるのかしら、この子は。まだ翼くんのお家に引っ越していくらも経ってないじゃない」 くすくす笑いながら頭を撫でられる。昨夜から今まで一度も頭をよぎることのなかった婚約者の名に、桜は唐突に真顔になった。 「桜?」 トーストの上でバターの四隅が金色に溶けていく。桜は不思議と食欲がなくなっていた。 「ごめん、ママ。すぐに帰らなくちゃ」 「えっ?朝ごはんは?」 「いらない。……じゃあ、またね」 あっけにとられる母を置いて桜は実家を出た。ポケットの携帯を確認すると、昨夜翼からメッセージが入っていた。依頼に手こずっていて、帰りが二、三日長引きそうだという。顔を上げると三界高校の制服を着た女子生徒が自転車で側を通り過ぎていった。懐かしくなって、桜は振り返る。 「朝ごはん、かあ」 桜がまだあの制服に身を包んでいた頃。時々、貧乏なりんねのために朝ごはんを差し入れてやった。そのたびに桜は大袈裟なほど感謝されたものだ。 何を届けてもりんねはありがたそうに、幸せそうに受け取っていた。桜はりんねの空腹も、心も満たしてやりたいと思った。今も彼を案じる気持ちは変わらない。朝ごはんを安心してとれるような、穏やかな日々を過ごしてくれていたならいいのに。 十文字家が見えてくると、遠目ながら門の前に見知らぬ青年が立っているのがわかった。ブランケットか何かにくるまれた小さな子どもを抱いて、不安そうに辺りを見回している。依頼人かと思い桜が近づいていくと、青年は安堵の面持ちで訊ねてきた。 「あの、こちらは、お祓いをやられている十文字さんのお宅で間違いないでしょうか?」 「ええ、そうですが。依頼人の方ですか?」 「はい。聞いていただきたいことがありまして」 青年は眼帯をしていた。桜はなぜか背筋に悪寒を覚えるが、続く問いかけにそのことは頭から吹き飛んでしまう。 「あの、お嬢さんは『堕魔死神』をご存知でしょうか?」 ーー堕魔死神。普通の人間が知るはずのない存在だ。 桜の反応から「知っている」と確信したのだろう。青年はぶるりと身震いし、語り出した。 「死神なんて、僕は全く信じていませんでした。今でもあれは夢だったのではないかと思います。ーーしばらく前から、どうも夢見が悪くて寝付けずにいました。恐ろしい死神が夢に現れて、大きな鎌で魂をとられそうになるのです」 リカの彼氏と同じだった。桜はつい、聞き入ってしまう。 「ある夜、うっかり寝てしまい、気付くと僕は知らない場所にいました。堕魔死神と名乗る男が、ここは死んだ人間がやって来る『あの世』なのだと。ーー僕を三途の川の向こうまで連れていくところだと言うので、恐ろしくなって逃げました。大きな建物があったので、その中にどうにか駆け込みました」 くるまれているものの中で、子どもと思われるものがもぞもぞと動いた。青年は恐怖に表情を強ばらせ、今にも捨ててしまいたいという顔をする。 「その建物は運悪く『堕魔死神カンパニー』というところだったらしく、僕は捕まりました。すぐにまた三途の川へ連れていかれそうになりましたが、なぜかそこにいた子どもがやたらと僕になつくので、世話係としてしばらくは命拾いしました。子守りをしながら、どうにか死神の隙をついて、僕はこちらに逃げ帰りました。この子は、途中で捨てたりしたら呪われそうなので、連れてきてしまったのですがーー。僕ではどうにもできないので、しかるべき方に委ねたいのです」 青年が煙たそうに差し出してきた。落としては大変と桜が反射的に手を伸ばすと、子どもをくるんでいた羽織がはだけて、その容貌があらわになった。 ーー赤い髪。赤い瞳。 桜は目が離せなくなる。 おぞましいものを見る眼差しで、青年が見下ろしているその子は。 「堕魔死神カンパニーの、社長の子だそうです」 To be continued back |