花嫁御寮  16:夢かうつつか



 嫌な気配だった。壁越しにさえ感じ取れるほどの、背筋が凍りつくような寒々しさを、その来訪者は放っているようだった。
 それは明らかに「この世」に属するものの気配ではなく、「あの世」の生き物のそれに違いなかった。暗がりでじっとしているために研ぎ澄まされた桜の霊感が、強く警鐘を鳴らしている。お尋ね者の悪霊などまだ生ぬるい。今まで彼女が対峙したことのないような、世にも恐ろしい存在が壁の向こうにいる。目に留まってしまったが最後、きっと魂を狩り取られるだろうーー。
 桜は我知らず身震いした。身体の芯から底冷えするような寒さを感じていた。本能的に覚えたどうにもならない怯えが伝わったのだろう、彼女の背に回されたりんねの手に力がこもり、二人はよりいっそう密着する格好になる。りんねがこれ以上距離を縮められないほど傍にいることを実感すると、不思議なことに、桜の震えは自然とおさまっていた。恐怖を恐怖だと悟るよりも前に、安堵がその胸の内にそっと兆していた。
「ーー彼の魂が、身体を離れた」
 緊張の滲む声色でりんねが呟くよりも前に、彼の速まった心臓の音がそのことを告げていた。傍にいるリカも危険な目に遭うかもしれない。いてもたってもいられなくなった桜は、りんねの腕の中、黄泉の羽織の中という安全地帯から、気まぐれな猫のようにするりと抜け出していた。
 寝室のドアを開けると、あの禍々しい気配はもう消えていた。ソファの上には先程と変わらない微笑ましい二人の寝姿があるようでいて、まったく様子が異なっていた。蝋よりも白い顔をして横たわるリカの彼氏は、もはや永遠の眠りの最中にあった。リビングに面したガラス張りの窓の向こうに目をやると、心もとなく人魂が漂っているのが見えた。おぼろげながら人の形をとった彼が、何かに吸い寄せられるように、みるみるうちに遠ざかっていく。
「真宮桜!」
 助けに行こうーーと振り返りざまに言う必要はなかった。
 後ろから現れたりんねに手を掴まれた。輝く赤い髪が目の端を掠め、黄泉の羽織に縫いとめられた火焔と車輪が、風にはたはたと翻るのを目の当たりにした時には、桜はすでに死神に手を引かれ、月の冴え渡る紺碧の夜空を高く、高く飛んでいた。
 月明かりに目が眩みそうになる。
 ーーあの頃の六道りんねが、そこにいた。
 六年の時が経とうと、何一つ変わることのない正義の姿。
 信じてやまなかった死神の姿が、今、彼女の目の前にあった。
「この手につかまって!」
 霊体となったリカの彼は無我夢中でりんねの差し出す手をとろうとするが、ブラックホールのように大口を開けた霊道の奥に引き寄せられて、思うように身動きがとれない。輪廻の輪に連れて行かれたが最後、もうりんねにすら彼を助けることはできないだろう。
「ああっ、もう駄目だーー」
「そんなに簡単に、諦めるなっ!」
 りんねの叱咤に、泣き言をいった彼が目を見開く。桜も驚いてその横顔を見上げた。
「あなたの大事な人が、リカがあなたを待っているんだ。彼女にもう二度と会えなくなっても、それでいいのかーー!」
 幽霊の彼は涙ぐみながら、力強く首を横に振った。とめどなく押し寄せる濁流に逆らうように、文字通りの死に物狂いで伸ばした手を、りんねが紙一重の差でどうにかとらえて引き寄せる。
「もう大丈夫。あなたは、悪い死神に打ち克ったんだ」
 ーー悪夢は終わった。あなたは、生きている。
 りんねにそう言われたことが、余程頼もしかったと見える。リカの彼は目に涙を浮かべた。
「リカに会えますか?」
「はい」
「……今すぐに?」
「帰りましょう、彼女のもとへ」
 彼は子どものように泣いていた。もと来た道を戻るあいだずっとリカの名前を呼んでいた。部屋に帰り着いて、何も知らずに自分のぬけがらの隣で眠るリカを見て、今度は嬉し泣きに声をからした。
 りんねは彼が泣き疲れて眠りに落ちるのを待ってから、彼とリカの耳元でそれぞれ何事かを囁いた。それから袖から小瓶を出して、中にはいっている桜色の液体を二人の瞼に一滴ずつ落とした。
 催眠術をかけて、一連の出来事を忘れさせたのだという。
「憶えていない方がいいこともあるからな」
 りんねがじっと見ているので、桜は目を逸らさなかった。
「私に催眠術なんてかけても、効かないよ」
「ああ。……お前には効かないだろうな」
 りんねが笑った、ような気がした。
 彼女の耳に唇を寄せて、家まで送ると言ってくれたーーそんな気もした。
 だがそれは桜の切なる願望が見せた、つかの間の幻だったのかもしれない。
 瞼がやけに重く感じられーー次の瞬間には、りんねはもう桜に背を向けていた。
「きっと効かない。ーー俺が忘れてほしくないから」
 独り言のようなその言葉さえも、幻聴に過ぎなかったのかもしれない。
 夢かうつつかさえも分からずに、桜はただ一人の名を呼んでいた。



To be continued
 
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