花嫁御寮  15:ヨミの来訪



 彼の着物越しに、心臓の音が聞こえる。
 とくとくと早鐘を打っている。自分の胸も負けず劣らず高鳴っていることを、桜は自覚せざるを得ない。
「一旦はやつの目を欺くために、なすがままにまかせる。ーーだが、すぐに俺が迎えに行って連れ戻してくるから」
 桜の頭のすぐ上で、彼が囁いた。
 りんねはどうやら、リカの彼氏を「誰か」の魔手から救うため、隠密に動いているらしい。
 彼の説明はあまりにも簡略的で、桜にはまだ状況の多くは窺い知れていない。りんねとの再会、リカの彼氏の危機、じきに現れるという見知らぬ来訪者。突飛な出来事の数々に頭の整理がまだついていない。
 ただ、りんねが彼女の味方についてくれそうだということだけは確信できる。
 心中穏やかならざるものが渦巻いてはいるものの、まずは人助けが先決だった。知っていることは伝えておかなくてはと思い、なるべく静かに声を発する。
「……リカちゃんの彼。ここ何日も、大鎌をもった死神に、魂を狩られそうになる夢を見てたんだって」
「ああ。その夢を見たくないがために寝不足になり、どんどんやつれていったんだろう」
 りんねはとうに事情を熟知しているようだった。理由を訊きたい衝動を、桜はぐっとこらえる。
「ねらった人間の夢枕に立ち、夜な夜な恐怖を味わわせて、生気を奪い取る。弱っているところを襲えば魂は格段に狩りやすくなるからな。これも、やつの卑劣な手口のひとつだ」
 堕魔死神のことを言っているのか。りんねの声には、ぬぐい去れない嫌悪と憎しみが滲んでいた。
「やつに見つかれば彼を助けられないばかりか、真宮桜、お前の身も危うくなる。だからしばらくの間、嫌かもしれんが、このままここで我慢していてくれ。ーー悔しいが、いまの俺ではあの男と互角に戦うことはできないんだ」
 ーー嫌なんかじゃない。
 りんねの胸元に額を押しあてながら、心のなかで桜はそっと告げる。
 あなたの傍にいるのが嫌だと思ったことなんて、今までに一度だってなかった。


 夜半の月が淡い真珠色に輝いている。昼間空に雲がかかっていたせいで星の数は少ないが、眼下に広がる現世の夜景は相も変わらず賑やかなものだ。
 死神は夜空を飛びながら、氷のように冷ややかな青の隻眼で、夜空にとってかわったような眩い夜景を見下ろしている。
 ーーこの景色は、唯一無二の輝きね。
 夢見るような眼差しで、そう言ったのは誰だったか。彼にとっては問いかけるまでもなく、また記憶を遡るまでもない。彼女の名、彼女の言葉、彼女と見た景色。それらはいつでも振り返ることができるよう、つねに引き出しの一番上にしまってあるのだから。
「ーー見て、ヨミ!現世が、あんなに明るいわ」
 目を閉じれば、はしゃぐ声が鮮明に聞こえてくる。許婚に手を引かれ、夜空を飛んだあの時に戻れるような気がする。
 あの日は、現世の街路を「ガス灯」なるものが初めて照らした日だった。許婚は何日も前からその日を心待ちにしていた。許婚とは名ばかりで、普段はつれなくあしらわれるのだが、厳格な彼女の両親が彼となら夜間外出を許すというので、その日ばかりは彼と手を繋ぐほど機嫌が良かった。
 だが、折角めずらしくまともな許婚らしいことをしているというのに、彼女が家屋の屋根からガス灯をうっとりと飽きもせずに眺めているのが、彼は気に食わなかった。注意をひきたくて、わざとらしく欠伸をしてみせると、月の光を紡いだような髪をきらめかせて彼女は振り返った。
「あんなのの何が面白いの?今までの提灯や灯籠となんも変わらないよ、魂ちゃん」
「ヨミは『浪漫』がないのね。つまらない」
 許婚は現世の花飾りを頭につけると、屋根からさっと飛び降り、往来の人混みに紛れていってしまった。
 あわててその花飾りを追いかけた。だがそれは所詮記憶の中の出来事でしかない。過去を追体験しているにすぎないのだ。途中であきらめて、死神はまた目を開けた。
 あの後、美しい許婚をつかまえることはついぞ叶わなかった。
 やがて彼女は人間を愛した。
 そして、彼は人間を憎んだ。
 ひときわ空高くそびえ立つ建物を視界の先にとらえる。あれを人間は高層マンションと呼ぶらしい。そのうちの一室に今回の獲物がいる。まだ若く未来ある人間の青年。彼が見せた悪夢に苛まれ、寿命の縮まる思いを味わっていることだろう。
 死神は窓ガラスを通り抜けて中に入った。ソファに若い人間の恋人達が眠っていた。男の方は目に見えてやつれ、死相があらわれていた。彼は大鎌を振り上げ、定められた命数に背き、その魂を狩った。あっけないものだ。事切れた青年はくたりと首を傾げ、身体からはじき出された人魂は心許なげに窓の外を漂った。女の方は気付かずに眠っている。目が覚め、死体と添い寝していたと知ってどのような顔をするだろう。
 あっけないが、満足した。今夜はもう現世などに用はない。死の国に帰るべく霊道を開いたところで、ふと近くに気配を覚えた。
 一人ではない、二人だ。片方はわかっている。愛すべき元許婚の孫だ。陰に隠れてなにやらこそこそと動き回っていることは知っていた。憂さ晴らしに狩った魂にどう後始末をつけようと興味はないので、今のところは放し飼いにしている。だがもう一人は誰だ。どうやら人間の気配のようだ。
 彼はひとまず霊道に入り、気配を消して部屋の様子を窺った。しばらくすると人間の女が別の部屋から駆け出してきた。続いて警戒するように辺りを見回しながら、彼が「婿殿」と呼ぶ青年が姿を現した。女が誰かをみとめた彼は目を細めた。
 どうやら、運命の悪戯がこの二人を引き合わせたらしい。




To be continued
 
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