冥途


 
「魂子、見てごらん。ここから桜のつぼみがみえるよ」
 ぼんやりとした目でりんごの皮を向いていた妻が、彼を見る。彼が優しく笑って視線で促すと、ようやくこの世界に彼以外のものが存在していることに気付いたように、窓の外にゆっくりと目を向けた。
 日増しに春の気配が感じられるようになってきた三月の暮れ。十六になる孫はつい先日卒業証書を見せにきたばかりだが、早いもので来月は高校入学をひかえている。できることなら孫が不自由しないよう支度を調えてやりたいところだが、悲しきかな、病魔に蝕まれた老体が言うことをきいてくれない。
「りんねの入学式までには、咲くだろうね」
「ええ、きっと」
 空気を入れ換えましょう、と言って魂子が少しだけ窓を開けた。まだ冷たい隙間風に、彼女の白い髪と黒の振袖がかすかに揺らめいた。
 この一年ほど、魂子は病床の彼に付きっきりだった。一秒たりとも離れたくないとばかりに彼の傍に居続けた。死神の彼女は愛する夫の命数が尽きるその日付も、その詳細な刻限さえもとうの昔に知り得ている。
 二人に与えられた五十年という時の砂時計はもうじき終わりを告げるだろう。あえて口に出さずとも互いに分かっていた。魂子にとっての今は、いくらでも代わりの利く死神の職務に費やすべき時ではなく、今生でわかちあえる残り少ない夫婦の日々を、惜しみのないようにまっとうするべき時だった。
「一刻も早く咲いてほしいものだね。いつかのように、きみの頭にかんざしを挿してあげたいな。今年一番の桜の花を、ぼくが見つけて、ぼくのこの手で」
「あなたったら、もう……。一体、いつの話をなさっているのかしら?」
 年甲斐もなく、と言われようがかまわない。妻の頬が、はじらう少女のようにうっすらと上気するその愛くるしいさまは、どれほどの年月を重ねても色あせることを知らない。彼女の顔が美しく色づくのを見られるのなら、彼はどんな言葉も惜しみはしない。
「おいで、魂子」
 ドアをちらりと見やり、病室の外に人気がないのを確認したのか、魂子が安心したように下駄をぬぎ、そっと掛け布団をもちあげて彼の隣にはいってきた。
「ここ、狭いだろう?すまないね、我儘な夫をもったばかりに、きみには苦労をかけてばかりだ」
「いいえ、ちっとも狭くなんてないわ。……あなた、私ね、こうしていると、とっても幸せなのよ」
 同じ寝床で過ごした夜は星の数ほどだが、幸せだと囁きながら、これほど物悲しい目をした彼女を見るのは初めてのことだった。どうしても見ていられず、腕の中に閉じこめて遮ってしまう。
「ぼくも幸せだよ、魂子。こうしてきみと、今日という日を過ごせた。明日もきみが傍にいてくれる。──魂子。この世の誰よりも、ぼくはきみを愛しているよ。五十年かけてもまだ伝え足りないくらい、きみを愛してる」
 笑ってほしくて伝えた言葉だった。なのに腕の中から見上げてくる、さくらんぼのように愛らしい瞳は、ますます悲愴な陰りを帯びていく。
 その顔から屈託のない笑顔が消えてしまったのはいつからだったか。このところはいつ見ても無理をして笑っているようだった。五十年もの長きを連れ添い、毎日飽きもせずに見つめてきた顔だ。その表情が本物か偽物か、見分けがつかないわけがない。
「魂子」
 最後にもう一度だけ、笑ってみせて。
 きみと過ごした日々を、何よりも美しくかけがえのない思い出を、ぼくは冥途のみやげにあの世へ持っていく。




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2015.12.31

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