逃避行 | ナノ

逃避行


 開け放たれた窓の向こうに望む空は、雨が降り出しそうな淀んだ鈍色をしていた。降雨の前触れであるかのように、湿った空気が静かな部屋に漂っている。
 ──そう言えば、あの日もこんな空模様だったっけ。
 桜はぼんやりとそう思った。一抹の痛感を覚えて、鼓動のない胸元を抑える。
 忘れもしないあの日の出来事は、目を閉じれば闇の中で鮮明に浮かび上がってくる。轟音を立てて突進してくる黒い車と、薄闇の中で煌々と光る、夜行動物の目のようなライト。あれは生前、彼女が観た最後の景色だった。
 何年という時を重ねても、記憶する惨劇は微塵も色褪せない。むしろ年月を経るごとに、より克明になっていくような気さえする。そして色濃く残るその記憶を思い出すたびに、彼女は自身とあらゆるものとの間に隔絶を覚えるのだった。
 ──私の時は止まっている。
 本来ならば命を落としたあの日、彼女は冥府を下るべきだった。然るべき道を辿り、そして輪廻の輪へ乗るべきだった。死してもなおこうして現世に留まり続けることは、輪廻転生の理に反したことだと知っていた。
 それでも、彼女は幽き身をこの世界に置いている。魂の抜けた空蝉が、墓標の下に葬られたあとも。
 どんなに側にあっても、彼女を喪い悲嘆に暮れる人々を、慰めることはかなわなかった。幽霊となった彼女は、常人の目には見えない。私はここにいるよ、と涙ながらに訴えても、誰にも聞こえない。ただ隣に佇む少年が、声に応えるように手を握り返すだけだ。
 もうこの世界に自分の居場所がないことを、あの時桜は改めて思い知った。真宮桜という少女は、世界のどこにもいない。
 それなのに、彼はつないだ手を離さない。
「ここにはもう、私の居場所はないんだね…」
 ある日、途方に暮れた桜がそう言ったことがあった。そんな彼女に、彼は冷静な口調で畳み掛けたのだった。
「そんなことはない。…居場所なら、ここにある」
 その言葉と手の温もりに、桜はただ縋った。そして、後ろ髪引かれるような思いを振り切った。
 手を引かれるままに、在るべきでない世界を転々とした。忍び寄る死神の跫音から、死神と共にどこまでも逃げる。そんな不安定な日々を、幾年と過ごしてきた。
 ──こんな在り方は間違ってる、と桜は思う。未練を残し成仏し得ない霊達と、自分は何ら変わりない。死神である彼が同じ死神から逃避するなど、おかしい。
 巧妙に追手を躱し続けている彼だけれど、この先果たしていつまで、こんな逃避行を続けていられるのだろう。彼女の逃避を幇助することで、いつか彼が罰を受けるのではないか。
 薄暗い部屋で独りになると、普段は淵に沈めている不安が心の底からこみ上げてくる。独りで抱えるにはあまりに重過ぎるその不安に、小さな肩が凍えたように震えた。





end. 

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