花嫁 - 25 - | ナノ

花嫁 - 25 -




 焦がれに焦がれた森に帰るまでの道程は、胸躍るような時間だった。
 サンは山犬の兄の背にまたがり、春の装いを凝らした美しい野山を駆けていく。桜の花びらが舞い散る中、両手をいっぱいにひろげて、狭苦しい日々から開放された喜びを噛みしめた。
 アシタカは自分の脚でついてきたが、ふと視線が合えば、蜂蜜のように甘い笑みを向けてくる。とろけるような声で、
「前を見ていないと、危ないよ」
 と、たしなめてくる。
 そういう自分こそよそ見ばかりして、彼女の後ろ姿に釘付けなのだが。
 深窓に閉じ込められる生活が、並外れたサンの脚力をもどかしいほどに鈍らせていた。しばらく馴らさなければ、山犬とアシタカの脚の速さには到底追いつけはしまい。
 けれどこれは役得かもしれない、とサンは思う。兄の背にただ乗ってさえいれば、やや後ろをついてくる愛しい男の顔を、いつまでも飽きもせずに見ていられるのだから。
 今宵は夜桜のそばで篝火を焚いて休むことにした。一日中サンを背に乗せて走り通した山犬はさすがに疲れたらしく、木の根本にその身を丸めてすぐに眠りに落ちた。
 サンは兄の毛にしっかりとくるまれた格好で横になっている。アシタカが求婚したとはいえ、返事をしていない以上、サンはまだ彼のものではないと主張しているのだ。眠るときでさえ、かわいい妹には指一本触れさせぬ、といわんばかりの態度である。
「──サン、もう眠ってしまったか?」
 目を閉じていたサンは、アシタカの静かな足音にも、近づく気配にも、とうに気付いていた。だが、アシタカがどんな反応をするのかうかがうため、狸寝入りしてみることにする。
 彼はしばらく黙って様子を見ていたようだが、山犬の腹に顔を埋めたサンが、すっかり寝入ってしまったと信じ込んだらしい。
「これ以上近づいたら、そなたの兄に噛みつかれるだろうか」
 一歩、そしてまた一歩、アシタカが土を踏み締めて近づいてくるのが音と気配で感じられる。サンは、緊張のあまり呼吸が拍子遅れにならぬよう、寝息のようにつとめて規則正しく息をする。
「いいや、噛み殺されてもかまわない。サン、そなたに触れることが出来るのなら……」
 アシタカの指が伸びて、彼女の頬にかかる髪を優しく除けた。桜色に染まった頬が露わになり、これ以上はもう嘘は突き通せそうにない、と観念する。
 おずおずと目を合わせた。花篝の明かりに照らされたアシタカの表情は、このうえなく満ち足りたものだった。彼はうっすらと笑み、伏し目になると顔を近づけてきた。つい、目を固く閉じてしまうサンの頬に、そっと唇を押し当てる。意識するあまり、彼女の呼吸はかえって不規則なものになってしまう。
 アシタカ、と名を呼ぼうとすると、人差し指を唇にあてて制された。篝火のはぜる音さえも、その瞬間、息をひそめたように思えた。
「──そなたの兄には、秘密だよ」
 でも、私に触れられるのなら、噛み殺されてもかまわないんだろう──?
 兄さんを起こしてしまおうか。そんな悪戯心を見透かされたらしい。困った子だ、といわんばかりにアシタカは苦笑する。
「……今、そなたの兄に噛み殺されては、そなたを花嫁にできぬまま、無念の死を遂げることになるな」
「もしそうなったら、どうする?タタリ神にでもなって、私を呪うか?」
「ふふ。サンが私の意を受け入れてくれるまで、まるで呪いのように、片時も慕わしいそなたの傍を離れないだろうね」
 くす、とどちらからともなく笑う。
 サンはまだ求婚に対する返事をしていない。ひとまずは森に帰り、シシ神との関係にけじめをつけなければならないからだ。
「少しだけ待っていてくれ。必ず、お前の心にこたえてみせるから」
 曇りなき眼で、アシタカが頷く。
 たがやはり、口約束をかわすだけでは物足りなかったらしい。
「サン。呆れるほど気の短いタタリ神を鎮める方法を、知っているかい?」
 タタリ神──そう呼ぶにはあまりにも清く美しい男が、まぶしい笑顔を近づけてくる。
 彼がどうして欲しいのか、サンには手に取るように分かる。
 花のもとにて、はじらいつつもどうにか、彼にぎこちない口づけを与えた。




【続】

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