龍も空から落ちる


 あの丈夫な帳場役が風邪をひいて出勤できないとは、まさに青天の霹靂だった。
 湯婆婆から父役にもたらされた情報はまたたくまに始業の準備に追われる油屋のすみずみまで行き届き、従業員たちはみなこの珍事に目をまるめていた。
「おおかた、年末年始にむけた支度で湯婆婆にこき使われて、無理がたたったんだろうよ。やけに生真面目だからな、あいつは」
 千尋がボイラー室にまかないを届けに行くと、薬研【やげん】で薬湯につかうとおぼしき草をすりつぶしながら釜爺がそんなことをぼやく。
 妹分に続いて中に入ってきたリンが、後ろ足で器用に潜り戸を閉めながら、
「猿も木から落ちるっていうけど、龍も空から落ちるのな。あの天下のハク様が、鼻水たらして寝込んでるなんてさ!」
 あっはっは、と不謹慎な笑いをこぼす姉貴分を千尋は苦笑いしながら見やった。
「わたし休憩時間になったら、ちょっと部屋に行って様子をみてきます。差し入れも届けたいし、ひとりぼっちだと心細いかもしれないから」
 仕事の手を休めずに釜爺がいった。
「そうしてやるといい。千が顔を出してやればあのハクのことだ、すぐに元気になるだろうからな」
 そんなことないです、と顔を赤らめてうつむく千尋。二人が言い交わした仲らしいことは油屋中が知るところなのに、奥ゆかしい千尋はなかなか表立って態度にあらわそうとしない。
 ずり落ちる眼鏡をなおしながら、釜爺が千尋の姉貴分に振り返った。
「なあリン。千がここに戻ってから、ハクは変わったと思わんか?」
 リンはススワタリたちに金平糖をばらまいてやり、肩をすくめた。
「それもじいさんの言う、愛の力ってやつか?」
「ああ、そうだろうなあ」
「ふうん。あたいにはよく解らないね」
「お前さんもまだまだ、ということだろうよ」
 すりつぶして粉にした薬草を小さな正方形の紙でつつみ、釜爺はそれを千尋に手渡した。
「食後にぬるま湯で飲ませるといい。ちいとばかし苦いが、ハクならまあ大丈夫だろう。明日には身体が楽になるはずだ」
「ありがとう、おじいさん。あとでハクに渡しますね」
 もらった薬を懐にしまい、千尋は姉貴分とふたりで仕事場に戻った。千尋が帳場役の看病に行けるよう、気を遣ってくれたとみえ、兄役から普段よりかなり早めに休憩のおゆるしがでた。

 ハクの部屋に入ってみると、明かりは消えている。窓が少しだけ開いていて、月光が細い隙間から差し込み、かろうじて窓辺にある静かな寝姿をみとめることができた。
 枕のそばに座ると、音を立てていないのに、気配を察したらしいハクが薄く目を開けた。
「……千尋?」
 気が咎めた千尋は眉を下げる。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや、ずっと起きていたよ」
「ずっと?だめだよ、風邪引きはちゃんと休まないと」
 顔を背けてこほんと小さな咳をしてから、ハクはまた千尋を見上げる。熱でこころなしか潤んだ瞳を細めて、いつどんなときでもかげりのない、天人のように美しい微笑をうかべた。
「そう言われると思って、眠ろうとしたけれど眠れなかった。千尋が来てくれるのではないかと、待ち遠しくて」
 千尋は言葉に詰まってしまう。この笑顔に、めっぽう弱い。
「こうしてじっと横になっていると、目を開けていても閉じていても、千尋の姿が浮かぶよ。そなたのことを思うだけで、明日にはもう身体がよくなっていそうな気さえするんだ」
「もう、病人が空元気出さないの。──おじいさんからお薬もらってきたから、まずは何か食べないとね」
 ぎこちなさを隠すために千尋はハクに背を向け、盆に乗せて運んできた小さな土鍋のふたをあけた。ついさっき火からおろしたばかりの白粥がほのかな湯気を立ちのぼらせる。それをれんげですくおうとすると、後ろから抱きすくめられた。
「ハク?」
「……」
 身体が熱い。
 水干越しにも体温の高さがわかる。いつもは水神らしくひやりとしているハクの身体が、今はじわりとほてりを帯びていた。
 熱がかなり高いらしい。千尋の耳にかかる吐息、かすれた声がなんとも悩ましい。
「……千尋が食べさせてくれる?」
 耳がこそばゆくて逃げ出したくなる。けれど、弱っている相手を置き去りにすることはできない。
 千尋はうるさい心臓をなだめつつ、れんげで粥をすくい、こぼさないようにそっともちあげながら彼に向き直った。
 舌をやけどしてはいけないと思い、ふうふうと息をかけて冷ましてから、彼の口元に運んでやる。
「おいしい?」
 ハクはしおらしく粥を飲みこみ、頷いた。もっと、と言うように小さく口をあける。
 親鳥からえさをもらう雛のように、彼は千尋の粥を幾匙か口にした。満たされたらしく、千尋が新しくもう一匙差し出すと、しずかに首をふった。頭が高熱でふらつくのか、千尋の肩に額を押しつけて重みをあずけてくる。また、小さく咳をする。
 千尋もなにやら母親になったような気分で、甲斐甲斐しく世話をした。子どものように頭を撫でてやり、肩口からこぼれ落ちる髪を片側にまとめてやる。ハクはなすがままにされていた。
「お薬、すこし苦いみたいだけど、大丈夫だよね?」
 湯呑みにそそいだ白湯に小指の先をちょんとひたし、ほどよい温度か確かめる。人肌程度にあたたまっていた。懐から釜爺にもらった薬の包みを取り出し、ハクに手渡す。
 釜爺がすりつぶしてくれたおかげで粉末になった薬草は、それでもなお相当な苦みが残っているらしい。口に含めば、さすがの彼も眉を顰めずにはいられなかった。
「良薬は口に苦し、でしょ?」
 千尋は小さな子をあやすように、ハクの丸まった背中を優しくたたいてやった。まずい薬を白湯でどうにか飲み下し、ほっと息をつくハク。
「偉い、偉い。きっとすぐによくなるよ」
 ハクがじっと千尋を見ていた。明かりが乏しいなかでも、その縋るような眼差しが胸を衝く。千尋とて体調をくずすと心細くなることはある。人恋しくなって、誰かに寄り添っていてほしいと思う。けれどこの人外の青年にかぎって、そんなことはないだろうとたかをくくっていた。
「行かないでおくれ、千尋」
 かすれた声は切ない響きをともなった。腰のあたりに抱きつかれて、千尋は身動きがとれない。
「私の傍にいてほしい。今夜はそなたのことが、いっそう離しがたいんだ……」
 千尋は意味もなくあたりをきょろきょろ見回すが、助けを求めようにも、しずかな部屋には他に誰がいるわけでもない。
「でもわたし、そろそろお座敷にもどらないと」
「手伝いの代わりは他にいくらでもいる。──けれど私には、千尋しかいないんだよ」
 置き去りにされた竜の落とし子のような目で哀願されては、離れられるわけがない。
 しかたがない。これはあらがうことのできない力のせいだ。千尋は、下に降りてこなすべきもろもろの仕事には目を瞑ることにした。上役のハクのことだ、復帰したらうまいこと兄役や姉貴分たちに説明してくれるだろう。
「──わかった。今日はハクと一緒にいてあげるね」
 吉報を得たハクの目の輝かしさといったら、それはまさに、今にも天に昇ろうとする龍そのものだった。
 食器の後片づけをすませたあと、寝具の中で抱き枕にされながらふと、ボイラー室でのやりとりが千尋の頭を過ぎった。
「さっき、おじいさんがね。わたしが戻ってから、ハクは変わったって言ってたの」
 ハクはまどろみかけているらしく、反応が鈍い。薬が効いているのかもしれない。空から降りそそぐ雨のように、さやかな月の光を浴びながら、千尋も彼にならって目を閉じる。
「今日、それがなんとなくわかったような気がする。おぼえていたら明日、教えてあげるね。──おやすみなさい、ハク」
 不思議の街の夜はまだ明けない。
 あの月が消えて、太陽が空高く昇るまで、わたしの愛しい龍が本来の姿を取りもどすまで、こうして傍にいてあげる。





2015.11.29
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