啼鳥 - 3 - | ナノ

啼鳥  3

 大きな円窓の向こうに見える遠い山の景色を、今日もりんは飽きもせずに眺めている。
 耳に心地よい調べを奏でてくれた秋の虫たちは、もういない。山を流れる川では、色褪せた病葉【わくらば】が成すすべもなく押し流されていることだろう。
 装いの美しさを失って日々寒々しくなっていく山を、天地が見捨ててしまったかのように、辺りはしんと静まり返っていた。
 ──あの頃は、良かったな。
 誰にも邪魔されずに彼の隣を歩くことができた日々が、とても懐かしかった。
 足並みは違くとも。歩くのが遅いりんの歩幅に、殺生丸が合わせてくれることはなくとも。少し歩いた先で、彼が必ずりんを待っていてくれる。それが、何よりも嬉しかった。
 同じ旅路をゆき、同じ景色を見ることができた日々。とりとめもないことを語りかけることも、気兼ねなく名を呼ぶことも許されていた。ただただ、無邪気で無知な少女だった自分。
 ──どうしてあのままじゃいけなかったんだろう。
 年月を経た自らの身体をりんは見下ろした。女盛りの豊満な肢体を惜しげもなくひけらかす奥方とは比べ物にならない貧相な身体つきではあるが、それでもあの頃の彼女自身と比べてみれば、まるで別人のようにまろみを帯びている。
 りんは嫌気がさして、顔をゆがめた。
 自分の成長を認めたくなかった。いつまでも裸足で野山を駆け回るやんちゃな少女のままでいたかった。白粉の匂いも眉墨の引き方も紅の点し方も、何ひとつとして知らないままでよかった。装うことを知らないままでいたかった。
 女になっていく自分が、恐ろしかった。
 だからこそ、紅葉のあでやかな装いを失った山の景色を、りんは心のどこかで羨ましく思っている。冬は景色に彩りがなくつまらないと皆が言う。だが、装いを脱ぎ捨ててありのままをさらけ出した自然の景色が、りんの目には何よりも美しく映った。
 厳しい冬に耐え抜く裸の木。あんな風に、なりたい。
 はじめてそう願ったのは、果たしていつのことだっただろう。


「りん」
 唐突な呼び声に、回想は終わりを告げる。
 記憶から目を逸らすように、振り返るりんを力強い腕が抱き締めた。しおらしく俯いたままの顎をそっと上向かせ、それが挨拶の代わりであるかのように、殺生丸は長い口づけを送る。
 手馴れた手つきで解かれていく帯から目を逸らし、りんは男の肩をそっと押し戻した。殺生丸の手が止まり、静かな眼差しが彼女に向けられる。何故止めるのかと問いかける眼差しだが、答えずにりんは深く俯く。
 手早くはだけられた着物の合わせ目を閉じると、りんは居住まいを正した。
「奥方様が、ご懐妊なさったそうですね」
 水の流れる音が、さやさやと沈黙を奏でる。
「先日、奥方様から教えていただきました。本当に──おめでとうございます」
 りんは両手を揃えると、恭しく頭を下げた。殺生丸はしばらくの間、露わになったりんの白い項を見つめていた。それからふと、視線を円窓の外へと向けた。
「りん」
 りんは静かに顔を上げた。殺生丸は、先程りんが見ていた、山の景色を眺めていた。
「ゆうべは、独り寝をさせたな」
「──え?」
 意外な言葉だった。どうやら謝られているようだと気づいたりんは、慌てて首を横に振った。
「おめでたいことがあったのでしょう。わたしのことなんて、お気になさらないでください……」
「めでたいこと、か」
 殺生丸の声は心なしか重苦しく、横顔もまた憂いを帯びているようだった。長く傍にいたりんだからこそ読み取れる機微である。喜びこそすれ、この反応は一体どうしたことだろう。りんは困惑してしまう。
「……お館様?」
 殺生丸は横目でりんを一瞥した。それでもまだ遠い景色を眺めているような、どこか遠い眼差しだった。
「りん。──やはりお前は、この私を名で呼ぼうとはしないのだな」
 言いながら手を伸ばし、殺生丸はりんの身体を優しく抱擁した。その衣からは、かぎ慣れた冴えた外気の香りがして、りんは揺り籠に身を預けているような心地よさを覚える。彼の片手がりんの胸を包むように触れた。りんはその手に自らの手を重ねて、目を閉じた。
「りんの心臓の音が聞こえますか?」
 りんは口元をふと綻ばせた。
「お館様に救っていただいた命です」
「……」
「何度も命を救っていただきました。なのに何の恩返しもできなくて……。お館様のために、りんは何ができるでしょう?」
 何事かに急いた子どものような、必死の声色だった。りんの腹に回した手に、殺生丸がかすかに力を籠めたことを、彼女は知らないだろう。
 殺生丸はりんの肩口に顔を埋めた。
「りん。お前はただ、私の傍にあればそれでいい」
「……他には?」
 りんは呟き返した。寡黙な男はそれ以上口を開こうとはしなかった。
 円窓から寒々しい風が吹いて、月光を縒り集めたような彼の銀髪を散らした。窓を閉めずに風を吹かせたまま、二人は何度か口付けを交わした。りんが小刻みに震え始めると、殺生丸は彼女の冷えた身体を温めるために衣を一枚ずつ、脱がせていった。
 りんは殺生丸の長い髪に指を通した。指と指の間をすべり落ちていくなめらかな感触を感じながら、ふと寂しげに微笑する。
 想い人はやはり、近くて遠い人なのだなと思った。




To be continued


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